<第10回> 「夫婦」というセット感に覚える違和感。
その後考えていたことをちょっと書くと、「夫婦」を考える前提として、どうして「夫婦」って特別なんだろうな、とまず考えていました。親友とか相棒とか親子とか、二者の関係性はいろいろあるのに。
で、法的に結婚してるかどうかはあまり問題でないとして、やっぱり基本1対1だということと、人生をともにするという前提で後天的に選んで一緒にいるということが「夫婦」なるものを「特別」と定義づけている要素かなあと思う。そのうえに、性的な関係がある(あった)ということも、大いに関係するのかな。
そう考えると、私とリチャード氏はまごうことなく「夫婦」ですよね。全部の要素に○か×かと言われたら、全部に○だ!法的に結婚してさえいる!なのに、どうしていまだに戸惑うのかな。
そこで、思い出したことがあります。
私たちは、結婚する前から4年くらいも一緒に住んでいたので、籍を入れた日も、結婚式の日も、その部屋から出かけていって、その部屋に帰ってきたのですよね。なんとなれば、朝とは違うものになって帰ってきたわけです。同じなのに。それで、帰ったあとにリチャード氏が、「おくさん、だんなさん」とかってふざけて言ったのち「まあ、でも、ずっと前からけっこんしてるよね」と言ったのでした。法的にどうこうは別として、「結婚する」って自分たちにも周りの人にも宣言するっていうことには、もちろん大きな意味があると思うし、まったく変わらないというつもりは毛頭ないのですけど、わたしたちにとっては結婚っていうのはそういうものでした。
結局のところ、いまだに、社会からはみ出し気味で居心地悪くしてるようなのが一緒にいるという感じでしかないのかも。森のなかにフクロウが2羽いて、くっつきあって夜じゅう起きてるみたいな。そこにもってきて、前に書いたような、子どももいないし、親も近くにいないし、社交的なつきあいもないっていう、世間的に「夫婦」として取り扱われる機会が少ないという環境がそれをそのままに許している。
で、急に自覚したけれど、「わたしたち『ふうふ』だよね」って自分たちで言うぶんには、じつはそんなに違和感がない。だから私が感じる「夫婦」へのとまどいは社会的なものなのかもしれません。自分が勝手に持っている、「夫婦」ってもののイメージと乖離しすぎているということなのかな。でも、そのイメージ、なんで後生だいじに抱えてるの?って気もするけど。
夫婦が双方向の化学作用である種の色や性格を帯びるのは当然として(ということは「セットとしてなにか新しいものがあるかないか」といえば、「ある」んだと思う)、それが他者からどう見えるかということに、ぜんぜん意識がいっていないということかも。自分たちだけよければいいというか、お、お互いのことしか見ていない…?気持ち悪いな。そうだったのか。
そこは、もしかして、つまみさんの言っているところと少し似ているかもしれません。え?違う?
そう考えると、より1対1感の強くなった「親友」や「相棒」がある種恋愛的性格を帯びて、夫婦的1セット感を醸し出すようになるのは、つまりそういうことですよね。運命共同体?
同時に、そうやって、私たちの関係性や、オットのことを描写しようとすると、とたんにそれは私が語る物語(ナラティブ)になってしまう。言っても言っても、虚構。
ああ、でも、やっぱり違うなあ。世間的な「夫婦」のイメージとの乖離だけじゃないですやっぱり。だって、世の中にはありとあらゆるタイプの夫婦がいて、でも、それが「夫婦」っていうセット感を醸し出した瞬間に違和感を感じるもの。この2人、なんかいいなあって思うのと、共存するの。それは、この、「物語」になっちゃう、しちゃう、っていうことへの違和感かもしれないって、ここまで書いてきて思いました。
共依存といったら、もう文字通りそうだなあ。どっちかが死んだら、ふくろう一匹だもん。
でもそうしたらもう、欠けたまんま生きてくだけだから、しょうがないと思う。
そして支離滅裂なまま終わる。