カフェ小景 悪いようにはしないから。
関西の小さな町の小さな喫茶店。
いつものように、ひとり静かにキーボードを叩いていると、なにやら隣の席のオジさん二人が言い争っている様子。正確には一人が少しだけ興奮気味で、もう一人がそれを抑えにかかっている、という感じ。
【登場人物】
高橋さん……男性(50代)スーツ姿。小太りで少し猫背。汗をかきかき話している。
鈴木さん……男性(30代後半から40代)Tシャツに短パン。ハンチングを被っている。
この二人の会話に気付いた最初の一言は、鈴木さんの「僕はクビやと思てますよ!」だった。それに対して、高橋さんが「いや、クビじゃないですよ。だから、ほら、退職するという書類にサインが欲しいわけですよ」となだめているという感じだった。
どうやら、鈴木さんが言うのには、「僕はこの1年、ことを荒立てないように、言うことを聞いてきた」と。「多少の嘘ならついてきたし、高橋さんの言う通りにしてきたじゃないですか」と。「それなのに、結局、うまくいかないからって、僕が悪者ですわ」と話したあたりから、鈴木さんが少しずつ声が大きくなり、「サインして、僕になんか得があるんですか」と言ったあたりで、もう高橋さんは、汗をだらだらかきながら途方に暮れている。
何があったのかなあ。なんかあったんだろうね。想像するに、高橋さんがというよりも、その上とか、中小企業なら社長とかの都合で、鈴木さんに汚れ仕事をさせたのに、鈴木さんが退職するように追い込まれたとか、そういう感じだろうか。
それはそれでドラマの見過ぎかという気もするが、高橋さんの汗が尋常ではないので、そうに違いないと思ってしまうのが、人間の弱いところだ。カフェでたまたま隣の席に座ったのだから、せめて僕だけでも客観的に冷静に二人の言い分を聞こうじゃないか、という気持ちになってくる。
そのとき、高橋さんが言ったのだ。あの言葉を。ほら、例のドラマで良く聞く、あのセリフを。鈴木さんが「サインして、僕になんか得があるんですか」と言い、高橋さんが汗をだらだらかいてるあたりで、沈黙が訪れる。そして、その沈黙を破って、高橋さんは「いやまあ、得というか、そのですね。まあ、会社としては、悪いようにはしないと思うんです」と言ったのだ。
いや、なかなかリアル「悪いようにはしない」は聞けないはず。僕も何回か聞いた気がするけど、それはたぶん映画とかテレビとか小説のなかのセリフとしてだったと思う。リアルに聞いたのは、大きな会社でアルバイトをしていたときに当時のマネージャーに異動の話をされた時だけだ。「うえまつくん、悪いようにはしないから、頼むよ」って(笑)。もう悪代官に見えたもんだ。
不思議なもんで、このセリフを言ったあとは、汗をかきかき気弱そうに見えていた高橋さんが、実は策士だったのかもと思えてくる。それが証拠に、なんとなくサインを拒んでいたはずの鈴木さんも、「悪いようには」の中身が聞きたくて仕方がなくなっている様子。そして、高橋さんもものすごく注意深く落とし所を探り始めている様子。いやもう、こうなると腹の探り合いですな。そして、人間、さらに不思議なもので、腹を探り合い始めると、声が小さくなる。
小声で話し始めた二人は、なんとなく落ち着きを取り戻し、やがて高橋さんが、テーブルの上の書類をまっすぐに置き直して、鈴木さんがそれにサインをする。
なんか、石破総理の続投会見なんかより、よっぽど大人の怖いところを見せられた気がして、こちとら今日も仕事が手につかないのさ。
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植松事務所
植松雅登(うえまつまさと): 1962年生。映画学校を卒業して映像業界で仕事をした後、なぜか広告業界へ。制作会社を経営しながら映画学校の講師などを経験。現在はフリーランスのコピーライター、クリエイティブディレクターとして、コピーライティング、ネーミングやブランディングの開発、映像制作などを行っています。