乗っかった想い:柚子の佃煮
先日、とあるSNSである方がこんな書き込みをされていました。
重い病気を患っていた奥さんが、亡くなる直前に病を押して作ってくれたハヤシライス。半分をその時に食べ、残りの半分を冷凍にしました。最近、そのハヤシライスを解凍して娘さんと食べたのだそうです。
その時のお二人の気持ちはいかばかりだったかと想像します。
もうこの世にはいない奥さんが、最後に作った料理。そのまま冷凍庫に保存しておけば、そこに奥さんがいてくれるような気持ちでいられるかもしれないけれど、それを解凍し、娘さんと二人で食べた。冷凍庫にしっかりとあった奥さんの気配を。
勇気が要ったことだと思います。それでも、それをすることで前に進めると考えたのかもしれないし、二人を思って料理をした奥さんの気持ちをしっかりと受け止めたいと考えたのかもしれません。
ふと、母が最後に私に作ってくれた料理を思い出しました。(母は健在です。認知症を患って今はグループホームに入所しています)
母が自分が主体となって家事をすることができなくなっていた頃のことです。転んで足首を捻挫してしまった私は、父の車で整形外科へ行きました。母を1人でおいていくのは気がかりでしたが、連れて行ったら行ったで自分が診察を受けるのかと思った彼女が混乱するのは目に見えていましたので、事情を説明して留守番を頼みました。診察が終わって帰って来ると、台所のテーブルの上におにぎりが一つ置いてありました。ラップもされていない小皿の上に、具の入っていない、海苔も巻かれていない塩むすびが一つ。「これ、どうしたの?」と聞くと、母は「あんた、お昼食べてないでしょ?お腹空くと思って」
日々認知症が進んでいるように見えた母に、まだ母親としての感覚が残っていたことに驚き、私は「ありがとうお母さん」と彼女の眼前でそのおにぎりを頬張りました。
昔、何かと言うと「料理は愛情!」と言う男性料理研究家がいました。その言葉を聞くたびに私はなんともいえない居心地の悪さを感じました。
もちろん、家族に美味しいものを食べさせたいと思いながら料理をするのは尊いことです。ただ、料理=愛なのだと声高に唱えられてしまったら、料理をするたびに耳元で「そこに愛はあるんか?」という呪文が聞こえてきそうで、私のような「愛無き者」にはとても辛い作業になってしまいます。
「美味しさの秘訣は愛です」などと臆面もなく言い放つ料理人には「その愛とやらは誰に向けられているんだ?」と問い詰めたくなるし、総菜売り場の前で「ポテトサラダぐらい自分で作れ」と説教めいた言葉を吐く爺さんには「ばーか、ばーか!」と悪態をつきたくなる。
料理研究家の小林カツ代さんはこう言いました。
「料理は愛情っていうのはつらい言葉ね。料理は技術よ」
ただ、料理に限らず、人が誰かに小さな(大きくてもいいけど)何かをする時にはそこに「想い」が乗っかっていると私は思います。
「それを愛と呼ぶんだ」という人もいるでしょうし、私はそれを「誰かに押し付けられる愛という言葉ほどは人を雁字搦めにしない優しいもの」と考えています。
冷凍されたハヤシライスにも、いびつな塩むすびにも、子供に食べさせようと手に取るポテトサラダにも、「お腹空いたらコンビニで何か買ってきな!」の言葉にも、想いは乗っかっている。そんな想いをやり取りしながら、やり取りした記憶を抱えながら、私たちは生きているのだろうな。
最近の私の料理は、件の男性料理家が見れば「喝!」と叫びたくなるようなレベルなのかもしれませんが、それでも父の好きそうなものを買ったり、チンしたり、調理したりしているのです。とはいえ、そろそろ何か手の込んだものを作る楽しさを取り戻さなければいい加減しんどくなってしまうぞ、と作ってみたのが今日の一品『柚子の佃煮』です。
今年、庭の柚子は何故か不作。使えそうな実を摘んで「さてどうしようか?」と考えた瞬間に、音訳グループでご一緒しているご婦人が柚子を佃煮にするという話をされていたことを思い出しました。
茹でこぼしなどが面倒ですが、そこを我慢して丁寧にやると優しい味の佃煮が出来上がります。
柚子の佃煮
- 柚子はよく洗ってへたを取り除き、横半分にカットします。
- スプーンなどを使って中袋、果実、種を取り除き、皮を薄い千切りにします。
- 鍋にたっぷりのお湯を沸かし、千切りにした皮を茹でます。
- 10分ほど茹でたらざるに上げ、さっと水で洗います。また鍋でお湯を沸かし、同じように茹でこぼすことを2~3回繰り返します。手間がかかって面倒ですが、ここをしっかりとやっておくとアクや苦みが抜けます。
- 水気を切った皮を鍋に入れ、砂糖、みりん、醤油、酒を加えて弱めの中火で煮ます。水は使いません。その分、酒を多めに入れて下さい。
- 焦げつかないように時々かき混ぜながら、水分がなくなるまで煮詰めたら出来上がりです。
ご飯にのせてもよし。麺類にのせてもよし。クリームチーズと一緒にパンにのせても美味しいですよ。
そういえば、最後に誰かが提供してくれた料理を食べたのっていつだろう?
どなたか、私に何か食べさせてくれませんか? 手料理でも冷凍でもコンビニで買った物でも構いません。そこに小さな想いが乗っかっていれば。
ミカスでした。
ゆのみ
お母様のおむすびの話、グッときました。私は職場での昼食は社食に注文するお弁当を自席で摂ります。メニューを見ずに毎日注文します。ひとが作ってくれるものは何でも美味しいです。
kokomo
ミカス様、エッセイストの酒井順子さんはお母さまが急死された後、冷蔵庫を開けるとお母さまが作ったカレーが入ってて、ああこれが母の最後の料理なんだなと思いながら食べた、というようなことを書いていらっしゃった記憶があります。私は両親とは離れて住んでいるので、もしかしたらいつぞや食べた料理が最後になる可能性もありますが、最後に母が作った料理がいつのもので何なのか全く覚えていないなぁ。
お母さまの最後の料理が塩むすびだったのですね。どれだけおいしかったんだろうと想像しました。塩むすびって単純そうだけれどおいしくつくるのって難しい。料理上手のミカスさんにお母さまが手渡していったものがおにぎりに込められているような気がします。
私も自分で作る料理に飽きました。飽きますよねー、飽きますとも。毎日が料理したくない自分との闘いです。同じく自分の料理に飽きたミカスさんのもとに、おいしいサンドウィッチ持って馳せ参じたい。
柚子の佃煮なんて考えたこともなかったけれど、おいしそう!それこそクリームチーズと合わせてパンに挟んでサンドウィッチにして食べたい!
ミカス Post author
ゆのみさん
メニューも見ずに毎日注文するお弁当。「今日は何かな?」と楽しみですね。
自分が作らなくていいというだけでも人が作ってくれるものはご馳走ですね。
ミカス Post author
kokomoさん
酒井さんもそんなことを書いていらしたのですね。
普通は誰かの最後の料理なんて覚えていませんよね。
私の場合、家事をほとんどしなくなった母の突然の塩むすびだったので強く記憶に残っています。
シンプルの極致だけれど、あの頃の母にとってはそれをするのも大変だったはずです。
飽きますよね、自分の料理。毎回同じようなものばかりで本当に飽きる。
それを打開するために、時々持ち寄り食事会をするのはとてもいいアイディア。
手作りじゃなくてもよし。とにかく自分が美味しいと思うものを持ち寄る。
いつか美味しいサンドウィッチ持って遊びに来て下さい。我が家のコロッケを作ってお迎えします!
kokomo
「持ち寄りオバフォー会」やりたいですねー。
天気が良いときに持ち寄りピクニックとかサイコー。
ミカス Post author
やりましょう!いつか必ず。
私、幹事やります。
ぱろる
★ミカスさん
kokomoさん
持ち寄りオバフォー会、
わたしも、参加希望します👋
甘い甘い卵焼きと
牛蒡の肉巻きを持って。
もし、お家でやるなら、
クリームシチューかミートソース持って。
今なら柚子酒と、
ブランデーで漬けた梅酒もあります。
呼んだり呼ばれたり。
おしゃべりに花を咲かせ
舌鼓をうちながら。
そういう時間、そろそろ持ちたいなぁ。
★伊丹十三の映画「タンポポ」に
「かあちゃん、死んじゃダメだ!
そうだ! 炒飯作れ!」との夫の呼びかけに
臨終の間際に炒飯炒めて、うっすら微笑んで死んでいく妻が出てくるんです。
本筋とは全く別のエピソードなんだけれど。
否応なしに失われゆくものの中で
そのひとのなかに、確かにあるものを感じて。
塩にぎり、たまらんです。
ミカス Post author
ぱろるさん
甘い甘い卵焼きと牛蒡の牛肉巻き持参なんて大歓迎です!!
季節が良ければ外でピクニックも良し。
ゆっくり腰を据えて楽しみたければ、ぼろ家ですが我が家へどうぞ。
(皆さんどこに住んでいるのか知らないけれど・笑)
料理をすることに限らず、誰もが「確かにあるもの」を持っているのですよね。
私のそれは一体何なんだろう。
「死んじゃだめだ!そうだ、何か喋れ!!」と言われて、ひとしきり喋りまくった後に事切れる。
そんなのもいいかもしれません。