祖父の人生
月曜の朝6:30、父から電話があり、「じいさんの血圧下がってきてると病院から電話があった」とのこと。
急いで支度をして、私も家を出る。駅まで歩くあいだに、もういちど携帯がなった。ああ、そうか。そうかあ。
5月28日の朝7時20分、祖父は父と母と叔母に見送られて往生しました。103歳とちょうど6ヶ月。
前日に、オットと会いに行っていた。そのときは、ときおりうとうとしていたけれど、意識もしっかりあって、話もできた。帰り際には、いつものように皆とがっちり握手して、オットに大きな声で、「サンキューベリーマッチ、シーユーアゲイン!」と言っていた。
昨日の今日で…というショックがあったかというと、何か予期していたような気もする。昨日の祖父の様子にとくに死ぬような徴候はなかったけれど、そういえば一緒にいるあいだずっと、涙がでそうで困った。そういえば。
途中で一度父の携帯に電話を入れると、もう病院を出るから、実家の鍵開けて待っててくれ、とのこと。
ええ?それっておじいちゃんも帰ってくるってこと?
「そうそう、車も出してくれて、ぜんぶやってくれるから。」
ええー、早い!そんな感じなのか。
とりあえず実家に行って、閉まったままの雨戸を開けて換気する。ふと思い立って、祖父の部屋の掃除機をかける。
部屋は、祖父が入院したときのままで、つまりすごく散らかっている。机の上には、工作の筆や竹串、たくさんの書き付けに、使いかけのふりかけの袋。
ここに帰ってくるのかな、そうなんだろうな…。
ほどなく、表ががやがやとして、病院組と祖父が帰宅した。スーツを来た男の人が2人、あっというまにセッティングをしてくれて、にわか祭壇となったベッドに、はやくも白装束となった祖父が運び込まれる。じゃまな机や床の荷物は別の部屋に運び出されて、ベッドの前にお祈り一式が置かれると、祖父の部屋にたちまち御霊前感がただよった。
7時半に死んで、10時にもうこれである。すっかり「仏様」だ。極楽界のスピードに、祖父もとまどっていやしないか。
祖父は死ぬ間際ほとんど物を食べていなかったので、断食のヨガの人みたいに肌に脂っ気がなくすべすべしていて、よけいに即身仏感がある。
こんなに、鼻が高かったんだなあ。
なーんか、病院の死にたてのじいさんを見たかったなあ。
あらかた支度もすんだところで、やってくれた2人(ふたりは葬儀屋さん)にどーもどーもとお礼を言って、みんなでお線香をあげた。
そのとき、葬儀屋さんのひとりが祖父の顔にレースの白布をかけて、
「ふだんはこうしてお顔を隠しておきます。どなたかきておまいりの際には、こうして布をあげていただいてかまいませんので」
と言いながら、「こうやって」「こうやって」と2回も祖父の顔の上でレースの布をひらっひらっとはためかせた。それが妙にツボにはまってしまい、妹とこっそり涙を流して笑う。10時半。
そのあとすぐに、葬儀の打ち合わせがはじまり、日程、場所、予約、仕出し、次々に決まっていく。
選ぶというより、確認、という感じだ。参列者の数は?ではこの会場でよろしいですね。焼き場があいているのは何時、では会食はこの時間に、そうすると仕出しの品数はこのくらい…
病院にはそれぞれ提携している葬儀社があって、電話一本で駆けつけて、こうしてぜんぶやってくれる。
遺族に段取りの負担をかけないありがたいシステムだが、もしじぶんのやりたい葬儀のかたちがある人は、あらかじめ準備しておかないときっと流されてしまう。
レースひらっひらっの人は、葬儀社のひとにはめずらしく、何かとせわしない。
彼の声を聞いているうちに、家族全員、だんだんおかしくなってくる。
彼らが帰ると、とりあえずはこれといってすることがなくなった。コンビニで買ったお昼を食べて、父母は昼寝、私たちはいったん帰宅。
祖父は体が弱くて、早死にすると言われていたのに100年生きた。
青年期に結核にかかり、2年ほど臥せった。祖父の歳の離れた妹である和子おばちゃんによると、祖父は離れに寝ていて、そっちにはいっちゃいけないと言われていたそうだ。
葬儀の日、焼き場で会食中にその話になり、あの当時、結核にかかってよく治ったよね、と言うと、
「そうだよねえ、あんとき近所に、一高に行くような頭のいい子がいてさ、その子も結核にかかって、死にたくない、死にたくないっていいながら、死んじゃったんだよ。でもにいさんはどういうわけか治ったの。」と教えてくれた。
すると、隣にいた従弟が、
「おじいちゃんさ、ほんとうは上に一人いたけど子どものころ死んじゃったんでしょ。向こうは長男だから一生懸命看病されたけど、自分はてきとうに転がされてたら、向こうは死んじゃってこっちが生き残った、って前におじいちゃん言ってた。」
と言いはじめ、え!そうなの?とびっくりした。
上の兄が小さい頃に亡くなったとは知っていたけど、なんとなく生まれてすぐ死んでしまったのだと思っていた。
私は私で、戦時中、祖父が風邪で仕事を休んだその日に、勤務していた工場が爆撃にあった、という話を聞いたことがある。
…じいさん、ものすごく悪運が強くないか?
人生って、ほんとうわからないなあ。
祖父と和子おばちゃんのあいだには、もうひとり弟がいて、このひとは健康で頑丈だったそうだが、私が生まれる前に、心臓発作で亡くなった。
成人できないと思われていた祖父は、弟の死後40年以上も長く生きた。
幼くして死んでしまった長男や、死にたくないといいながら死んでいった近所の子どもと、祖父のあいだに、なにか決定的な違いがあったとも思えない。
祖父が長生きしたのには、たぶんひけつなんてなくて、たまたま運がよかったからだ。
いや、運がいいなんていうことじたい、振り返ってはじめて思うことで、結核になったことも、体が弱かったせいでなりたかった獣医になれなかったことも、空気の悪い工場勤務で苦労したことも、当時の本人にとっては不運に他ならなかっただろう。
もっと体が強かったら、と若いころの祖父はいくども願ったにちがいない。
不運を運にかえた、などという精神論をいうつもりもない。偶然と、日常の、目の前に出来した選択の繰り返しが、祖父をここまで運んできた。
たとえば、私たちが道のこっちがわを歩こうか、あっちがわに渡ろうか、それが生死を分ける選択かもしれないなんて、そのときがくるまで夢にも思わないで生きているのと同じように。
祖父の部屋からは、祖父が折々に書き付けたメモや原稿が大量に見つかった。
買い物リスト、どこそこに振込み○千円、健康によい食べ物、それから、原稿用紙に書かれた、子どもの頃の思い出や、政治について、女の人がしあわせな社会について、地球がほろびないための7か条…
そのなかに、祖父が94歳の時に書いた、皆への手紙があった。
まさかこの年まで生きるとは思わなかった。これから身の回りのことがだんだんできなくなって、皆に迷惑をかけるのが申し訳ない。ありがとう、感謝感謝。
これを書いたとき祖父は、まさかその10年後も自分が生きているとは思っていなかっただろう。
入院する2日前まで書かれていた小さな日記帳には、やはり体調の記述が多い。
「お腹がいたいので、痛み止めをのんだ。いよいよ破裂が近いのか!□□と○○さん(私の両親)は外出!!!!」
ビックリマークがすごい。怒っているな。これは一年前くらいの日付。
そして、くしゃくしゃになった半紙の束があったのでめくってみると、「栄夫腹部大動脈瘤の記録」と書かれてあって、数年にわたってその成長が記されていた。
薄い半紙を使っているのは、それをお腹に押し当てて、サイズを書き写すためだった。それで、くしゃくしゃしているのだ。
その尽きせぬアイデア魂よ!
同時に、やはり、100歳を超え、いつお迎えがきてもおかしくないと思っていたとしたって、突然来るかもわからない自分の死が、こわくなかったはずはないよなあ、と思う。
祖父のことをよく知っているようで、私はやっぱり「祖父」としてのこの人しか知らないのだ。祖父の人生の全容は、その片鱗をこうして残しながらも、やはり本人が大半かかえて、持っていってしまう。
運のよかった祖父は、その人生を創意工夫でおもしろくして、そのおかげで私たちはしあわせだった。
祖父よありがとう。グッドバイ、また会う日まで。
【お知らせ】
7月6日(金)〜7月31日(火)に
長野県茅野市のアノニムギャラリーで、祖父の展覧会をひらきます。
茅野の古い集落にある旧家を使った美しいギャラリーに、50点超の作品を展示します。
空間全部を使った、はじめての本格的な展覧会になります。
祖父に見せたかったなあ。
お近くのかたいらっしゃいましたら、夏の長野にぜひおでかけください。
アノニムギャラリー
長野県茅野市湖東4278
11:00−18:00 水・木曜休み
By はらぷ
※「なんかすごい。」は、毎月第3木曜の更新です。はらぷさんのブログはこちら。
※はらぷさんが、お祖父さんの作ったものをアップするTwitterのアカウントはこちら。
AЯKO
「腹部大動脈瘤の記録」に思わず噴きそうになってしまいました。本人は死の恐怖と日々戦っていただろうに、何故しみじみ可笑しい(本当に失礼)。
それに「人生の全容は本人が大半抱えて持って行ってしまう」という言葉に、逝ってしまった三人の祖父達を思って涙が出てきてしまった。
私には、長生きして、趣味や興味の多くを共有し一緒にあちこち出かけた祖父、初孫の私を溺愛していたが実は血のつながりのなかった祖父、母が一歳の時亡くなって、母の成長も私の存在も知らない祖父、がいます。本当に、どんな好きな人で大切な家族でも、胸の中に何があったかはわからないのよね。
お祖父さんと長い時間を過ごせたのは、あなたの幸せな財産ですよ。いつか、また会える日が来る、本当にそうだよ!
つまみ
お祖父ちゃんの人生、書いてくれてありがとうございます。
90才を過ぎて人形を産み出し、それが孫(はらぷさん)の写真集で多くの人の知るところになり、103才という年齢の威力と共に、原田栄夫さんには公人の趣きも漂っていたようにも思います。
でも、はらぷさんにとってはなにより肉親で、生まれたときからよく知る身近な「おじいちゃん」で、その死の悲しみや喪失感はいかばかりか、でしょうし、その人生を、不特定多数に向けて書くことには逡巡(書くか書かざるか、だけではなく、何をどう書くか)があったことと思います。
でも、こんな風に書いてくれてありがとう。
職場で、偉人(!)のベタな伝記をナナメ読みするたびに、いくら、わかりやすく一生を、業績をこどもたちに伝えたいからといって、こんなに短絡的にひとりの人間を語っていいの?と思います。
なんだか今回のはらぷさんの記事は、そういう伝記の対極というか、総括しない、まとめない、わかりやすい到達点に落とし込まない、のがよかった。
孫がそういう文章を書くことで、お祖父ちゃんのいろいろなことが終わりにはなっていない…来月の長野の展示会も含めて、これからも続いていく、みたいで、なんだかとてもゆったりした気持ちになれました。
それは原田栄夫さんに限ったことではないのだな、人の死は、必ずしも終わりなんかじゃないな、とあらためて思わせてくれることでもありました。
わかりづらい文章で申し訳ありませんが、そんな気持ちです。
はらぷ Post author
AЯKOさん
こんばんは。コメントありがとうございます!
読んでこっちが涙でちゃったよ。
そうなの、『栄夫腹部動脈瘤の記録』には、私も笑ってしまいました。しみじみ可笑しいってぴったりのことばだね。
あんなことしていたなんて、誰も知らなかったんですよ。
本人は大真面目だったに違いないけど、こんな手法があったのか!という驚きの発想に脱帽です。
必要は発明の父…というか、祖父の作品にも通ずるものがある…。
ちなみに、あの半紙は二十数年前に亡くなった祖母の習字練習用の残りだと思われます。祖母もまさかこのような実用に使われるとは思ってもみなかったであろう。
ほんとう、家族でもパートナーでも、みんな自分だけの誰も知らない部分をかかえて生きて、死んでいくんだなあと思います。
親だって、そうよね。
AЯKOさんとおじいさまがそうだったように、私も祖父と好きな物や興味があることなんかでけっこう気が合って、一緒に出かけたり、本の貸し借りをしたり、いろんな時間を共有できたような気がします。
いろいろ話も聞けたしね。AЯKOさんから聞くおじいさまの話も、おもしろかったものなあ!
大人になってからそういう時間を持てたというのは、やっぱり祖父が元気で長生きしてくれたからですね。感謝感謝。
はらぷ Post author
つまみさま
わー、つまみさん!
私が言語化できていなかった、まだ整理しきれていない気持ちを書いてくれてありがとう。
わかりづらくなんてない、ものすごく滲みました。
この「なんかすごい。」で、何度も祖父のことを書かせてもらって、やっぱり、ここで書かんでどこで書く!という気持ちだったのです。
もうね、祖父の記事のなかの記事ですよ、死亡記事というのは。いわば引退記念コンサートですよ。
でもいざ書こうと思ったときに、「祖父の人生はとてもしあわせだった。ほんとうにありがとう。」
と言うのは、もちろんそれも嘘いつわりない本当の気持ちで、じっさい挨拶やご報告の中で言ったりもしたけれど、この場所ではそういうふうには書きたくなかった。
だって、103年だし、いろいろあったに違いないし。
偉人の伝記(笑)って、後世から見ているから、人生における苦労も失敗も挫折も、みんな立派な業績や輝かしい成果につながる「必然」になってしまうんですよね。
でもその渦中にいた本人にとったら、ただの「不幸」ですよ…。
ゴールがどうだったかによって、人生のあれやこれやが総括されてしまうのって、なかなか乱暴ですよね。
そしたら、終わりでつまずいた人は台無しかよ!ひどいじゃないか。
つまみさんが書いてくれたとおり(書いてもらって、そうか、そうだよ!と気が付いた。)、私が発信していた「人形を作る祖父」の姿と、それと円を重ねる形で、43年間(私の年ですよ)人生をともにした「おじいちゃん」のりょうほうがあるんですよね。
それで、どちらもほんとうなんだけど、やっぱりそれも私が知るかぎりの祖父の一部でしかない。
一番書きたかったことは、自分もしらない祖父の人生だった、というわけでした。
無理ゲー。(←これ使ってみたかった)
でも、人の死はそれで終わりじゃない、と感じてもらえて、すごく嬉しかったです。
先に死んだ人たちも、平行してもう少し先まで続いてる私たちの人生に、溶かしこまれていくのかな。
って思わずいっぱい書いてしまったじゃないか、つまみさんのせいだぞこのやろう。