木を植えるひと
ちょっとのま、ぼやぼやして…気が付いたら冬です…冬だよ!!
先月の「なんかすごい。」はフルスイングですっぽかし、カイゴデトックスにも行き損ねるという、生きる価値が見出せないはらぷです。
職場のひとに、「足尾に植樹に行かないか」と誘われた。
足尾ってあの足尾?
そうそう、あの、足尾銅山の。
足尾鉱毒事件、田中正造、直訴、谷中村…名前くらいは知っていた。
鉱毒で丸裸になった山々をよみがえらせようと、地元のNPOの人たちが長年植樹に取り組んでいる。そのひとは、組合の仲間と毎年出かけていって、木を植えているのだそうだ。
時間があれば町を歩いたりもできるし、それで温泉つかって帰るんだ。
なんだか楽しそうだ。
10月2日、私たち9人、ワゴンに乗って出かけた。3連休の初日で、高速道路が混んでおり、目的地までずいぶんかかった。
栃木県日光市足尾町。
地図で見ると、有名な中禅寺湖や男体山がすぐ近くだ。天気がいい。紅葉には少し早い。
足尾の町は、渡良瀬川に沿って細長い、谷あいの小さな町だ。
町に入ると、かつて銅山で栄えたなごりの、西洋風の煉瓦建築や、長屋の鉱員住宅群が今も残る。
銅を産出する備前楯山を擁する足尾は、江戸時代から「足尾千軒」と言われずいぶん栄えた。明治期に入り、ほぼ掘り尽くしたとされ閉山状態だった山を、後に鉱山王とよばれる古河市兵衛が買取ったのが1877年。
数年後、近代技術の進歩もあって有望鉱脈が次々に発見されると、富国強兵の国策のもと、足尾銅山は、国内の銅総産出量40%を占めるまでに大発展をとげた。町には近代的な鉱山施設が立ち並び、鉄道が走り、キネマや劇場、絢爛たる迎賓館が次々に建てられた。明治38年(1905)にはすでに町内に電話が引かれ、社宅に電灯がついていたというから、その栄華がしのばれる。足尾の町の人口、ピーク時38000人超(大正5年)。
車は足尾の町を通り抜けて、山に向かう。
道路脇の少し高くなったところにお寺があって、古い墓石を積み上げたような供養塔が見えた。廃村になった村の墓地から運んで、建てたのだそうだ。
大きな橋のたもとの駐車場に車を止めて、橋を渡ってビジターセンターを訪ねた。橋からは、人口の滝みたいな砂防ダムがよく見える。木を失った山は、土の流出を止められず、流れた土砂が川底にたまって、洪水を引き起こす。そのため、ここで土砂をくいとめて、下流に流さないようにしているのだ。
橋の下には美しい渓谷が見える。この透き通った水が、毒の水だったとは、にわかに信じられない。
「足尾鉱毒事件」といわれるだけあって、一般的に川の公害と思われているけれど、じつは煙害と川の汚染と両方である、とビジターセンターのおじさんが教えてくれた。
山から掘り出された銅鉱石は、渡良瀬川沿いに作られた製錬所に運ばれ、そこで純度の高い銅を取り出す作業を行っていた。その過程で煙突から排出される亜硫酸ガスを含む煙が、上流に向かう風に乗って、奥山の木々を枯らした。
また、鉱毒を含む廃棄物や、坑道から滲み出す汚染水は川に流され、下流の町や田畑に甚大な被害をもたらした。
発展のスピードも早ければ、鉱毒被害の発生も早い。古河市兵衛が銅山開発を始めた翌年には、すでに鮎の大量死が報告されている。7年後の1885年、足尾の木々が枯れ始めているとの記事が新聞に掲載された。木々を失った山は洪水を繰り返し、そのたびに鉱毒被害は拡大していく。
1902年、煙害のため、上流にあった松木村が廃村。もうせん見た供養塔の墓石は、ここから。
GoogleMapで「足尾」を検索して、航空写真にして見るとよくわかるのだが、製錬所のあった場所から上流の一帯が、明らかに近隣の山々とちがい、白っぽく緑がないのがわかる。川が穿つ谷間の両側がきれいにはげて、尾根の川側と反対側で、緑の密度が全然違う。これが、風の通る道。見えない毒が、渡っていった跡である。
さっきの砂防ダムの写真の背景をあらためて見てみると、山に高い木々がひとつもないことに気付くだろうか。
それでも、「やあ、ずいぶん緑がもどってきたなあ!」と、長年来ているひとたちが口々に言う。昔はほんとうに、火星みたいに荒涼とした、むきだしのハダカ山だったそうだ。
9人で5本ずつ、45本の苗木を植えた。コナラ、ヤマモミジ、クヌギなど、落葉広葉樹を混合で植えていく。
黒土の入ったバケツ、水、つるはしを持って斜面に取り付き、穴を掘る。土は粘土質の赤土で、大きな石がゴロゴロ出てきて掘りにくい。斜面で体のバランスを取りながら穴を掘るのは、コツが要る。たかが穴ひとつで、ずいぶん時間がかかってしまい、わたしはいなか育ちだと思っていたけれど、しょせん都会のもやしっこだった。穴のさいごの2つは、見かねたボランティアのおじさんが掘ってくれる。
ほい、苗入れてー、はいッ
黒土入れてー、はいッ
水そそいでー、はいッ
土もどしてー、はいッ
足で踏み固めるー、はいッ
はいおしまい! 早い…。
苗はずいぶん密集して植えてあって、苗と苗の間がこんなに狭いのか…と思ったけれど、これだけ植えても育つのは一部で、だからこれでいいのだそうだ。
おじさんが、ここは植えて15年、と、近くの一画を指差して教えてくれた。まだまだ若木の、木立だった。
運よく育つことができた強い苗が、やがて葉を落とし、土を作って根を伸ばし、循環と再生を自力で繰り返すほんとうの森になるまで、どれくらいかかるのだろう。
最初の植樹が行われたのは、1897年。約120年前だ。木々が枯れ果てるのに要した時間は、ほんの数年。その後の長い年月、地元の人々は、禿げ山の斜面をのぼり、土止めをし、苗木を植え、試行錯誤をくりかえして、ここまで戻した。
うっすら汗をかいた体に、ふきわたる風が気持ちいい。開けた眺望の先に、操業をやめて久しい製錬所の煙突が見える。
本来ならうっそうと木々が茂る深山のはずで、人間がいるようなところでない。
周辺には、登山客と思われる人の姿も多く見られた。おじさんによると、この奥に、尾根にたった一本ブナの木が生えている場所があり、そこがパワースポットと言われてさいきんずいぶん人気らしい。
そういえば、車を止めた駐車場もいっぱいだったが、ビジターセンターにはひとっこひとりいないし、皆どこに行ったのかと思っていたのだ。
「どうして一本だけなのかって理由も、さいきんは知らない人も多いんじゃないかねえ」とおじさんは言っていた。パワースポットかあ。
私たちだってそうだ。わざわざ遠くから、山をけずって作った高速道路を通って、ガソリンを消費し、排気ガスをまきちらして、たった45本。木を植えて達成感なんて感じている。
閉山となった備前楯山の内部には、坑道がはりめぐらされていて、そこから滲み出した地下水には、今もわずかだが鉱毒が含まれている。現在はそれを薬で中和して川に流しているのだが、その事業は未来永劫続くのだ。
にんげんって、どうも滑稽で、ほんとうに因果なものだ。借りを返すべき場所が多すぎる。
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By はらぷ
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※「なんかすごい。」は、毎月第3木曜の更新です。はらぷさんのブログはこちら。
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月見団子
初めてコメントいたします。
はらぷさんの文章のファンです。
時空を超え、しがらみを超え、理路整然としてるのに前頭葉を混乱させる、無重力的異空間に連れて行ってくださる、、私にはそう感ずる、そんな文章が大好きです。(⬅全力で褒めてます)
書かれている内容はSFではなく実は日常のことなのに不思議です。
で、そこはかとなくイギリス的ユーモアを感ずるのは、イギリスに行ったこともなくイギリス人の知人もいない私のひそやかな妄想です。
これからもはらぷさんの文章は勿論、私に圧倒的開放感を与えてくださる、はらぷさん独自の感性や表現をひっそりと楽しみにしてます。拙い乱文ごめんなさい。
AЯKO
実際足を運んでみると、思うことが沢山ありそうで、得難い経験になったね。
そんな数年で山を枯らしてしまうなんて、そして人力で山を再生するのに、1世紀以上かかっても、まだまだ途上にあるとは、、、。原発事故の後始末も、実は1世紀ぐらいかかったりして、「昔の話」とか笑えない。
たしか大杉栄と伊藤野枝も、現地の調査に行って投稿してるんだよね。政府の動きが物凄く遅くて、いろんな人の訴えを無視し続けたのも、被害拡大の原因なんだろうな。
はらぷ Post author
月見団子さん
こんばんは。はじめまして!
……時空を超え、しがらみを超え、理路整然としてるのに前頭葉を混乱させる、無重力的異空間……
こんな感想をいただけるなんて…夢なのか。本当に嬉しいです。ありがとうございます。
日常でも旅先でも、ふつう…なのかもしれないけれど何か気になる…っていうものありますよね。自分にはふつうだけど、アリんこから見たら変だよなあとか、このこととあのことは、なんだか似ているようだなあ、とか。
糸をたぐっていくと、あっちとこっちがずるずる一緒になって引っ張られてくるみたいなことが好きなのかもしれません。宇宙的いもほり。
…とぼやぼやしているまに、次の締め切りが目前に…。早い!年の瀬!
お返事が遅れてほんとうにすみません!
はらぷ Post author
AЯKOさん
うん、本当に、行ってみて感じたことがたくさんありました。以前積丹半島の袋澗を見に行ったときも思ったけれど、人の生きるエネルギーと、あとに残るがれきの山、その明暗。
そして、鉱毒の風が渡っていった跡というのをあれだけまざまざと見せつけられると、やはり私も原発事故のことを思わずにいられませんでした。
当時は国を挙げての富国強兵政策で、「人権」なんてもののためにお国の発展を妨げるとは!という時代だったのだよね。大杉栄と伊藤野枝が訪ねていたなんて、知らなかったな。
町民全部が鉱山に関わっていたといっても過言ではない背景もあって、公害と町の繁栄という二つの側面に対するさまざまな思いが、資料館の展示からも滲み出るようでした。