自分をつくるもの
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今日ひるまに、郵便局に出かけたら、道で知った顔とすれちがって、おたがいアッと足を止めた。
しかし、これを書いている今、まだ彼女の名前が思い出せないので、仮にAさんとさせてください…(ひどい…)
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(仮)Aさんは、私が月に2回手伝いにいっている、児童館のおはなしボランティアの助っ人なかまだ。
「おはなし」というのは、絵本や本のよみきかせとはちがって、おはなしをおぼえて、何も見ずに語る。「すばなし」や「ストーリーテリング」ということもある。
世界中で、ずっと昔から、夜、暖炉の前で、雪にふりこめられた冬の家中で、そして子どもの寝物語に、口から口へと語り継がれてきた、心おどる冒険に、不思議な妖精話、やまんばや鬼のでてくるおそろしいはなし、ゆかいなほらばなし…私たちがよく知る「グリムの昔ばなし」も、「三枚のお札」などの昔ばなしも、皆そんなふうにして伝わってきた。
今はおはなしのテキストがたくさんあって、口承文化の糸から外れてしまった現代の私たちにも、おはなしの楽しさを存分に伝えてくれる。
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2年ほど前から、地元のおはなしの会に入れてもらって、月に一度の勉強会に参加するようになった。
そこで知り合ったKさんというベテランの話し手が、近くの児童館で10年以上もおはなしの会をやっているのに誘ってもらって、去年からときどき手伝いに行っている。
「せっかくおはなしおぼえたら、子どもに語らなくちゃ!」といってKさんは、へたくそな私に、実践の機会を与えてくれる。
で、Aさんは、Kさんのやるその会で、長年子どもに何くれとなく目を配り、人数を数えたり、会場を整えたりしてくれていて、おはなしこそ語らないのだが、絵本を読むのがとてもうまい。そして、影絵シアターのミニ劇団をやっていて、年に数回おはなし会で影絵の会をしてくれる。
コロナのせいで、このおはなし会も2月を最後にすべて中止になってしまって、Aさんに会うのも5ヶ月ぶりくらいだ。ちょうど数日前、主催のKさんから、おはなし会当分中止の連絡が回ってきたところだった。
「わーわー!おげんきでしたか!」
と予期せぬ再会を喜び合って、しばし立ち話をした。
いつもおおらかでエネルギーあふれるAさんだが、見慣れないマスク姿のせいか、少し元気がないように見えるな…と思いつつ、お互いの近況など話していると、しばらく黙ったあとAさんが、
「何かじつはねー、コロナうつっていうのかね、ずっと何にもする気が起きなくてさー。」
と言った。
そうかー、やっぱりそうか…。
影絵の会の練習もいったん全部中止にして、しばらく、おたがい普段できなかったことをやったりしようね、なんて言っていたんだけど、なーんにもできなくってねえ。
もともとデイサービスの施設で夜間の仕事もしていたのだが、ちょうどコロナの広がり始めた頃に、人手不足が理由でその施設が夜利用をやめてしまった。自分に合っていたから残念だったんだけど、辞めたらすごく楽になったのは確か、と言っていた。やっぱり、すごく緊張感があったから。
でも、その後なんだか何もかもやる気がなくなってしまって、今は手伝っている畑があるから、そこにだけは行ってるんだけど、と言って、困ったなあ、というように首をかしげた。
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すごくわかる。私も職場が閉館してほぼ自宅待機になってしまって、その間にやれることがほんとうはいろいろあったはずなのに、無気力に過ぎてしまった。
なんか、こういうときだからといろいろ作ったりできる人と、気力がうばわれてしまう人と、分かれるのかもしれませんねえ、私たち、後者だったねえ、と言い合って、またね、なんとか元気でいようね、と別れた。
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不思議なもので、おはなしの会の人たちのなかでも、なんだか元気をなくしてしまって、おはなしに向き合えない、という人がとても多いのだ。
おはなしなんて、誰にもたのまれてない山登りみたいなもので、おはなしをおぼえるときは、ただただ自分ひとりのたたかい。
絵本もテレビもゲームもなんでもあるこの現代に、おはなしの楽しさとだけ手をたずさえて、20分も30分もするおはなしを、喜々としておぼえて語る。誰にもたのまれていないのに!
おはなしに必要なのは、自分のからだに入ったおはなしと、自分の声。
それなのに、そんな猛者たちが、意気消沈して、語る気持ちになれないと言う。
図書館が閉まって絵本が借りられなくなっても、おはなしならできるのに、不思議だよね、と会のひとりの方が言っていた。
不思議。でも、どうしてかわかる気がする。
それは、言うまでもなく、おはなしを聞く子どもたちの不在だ。
わたしはほんとうにまだ始めたばかりの初心者だが、子どもたちの前でおはなしをするときの、あの時間のとくべつさは、ちょっと言い表すことばが見つからない。
もぞもぞしながら落ち着かない子どもたちが、おはなしをはじめたとたんに静まり返る、あの瞬間、こちらを見つめる目、おはなしに反応して返ってくる合いの手や笑い声、もうひとつ話して!の催促。
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初めておはなしの会に参加させてもらった日、最初子どもたちは見慣れぬわたしによそよそしかった。
Kさんが、「今日のおはなしは、Hさん(わたしのこと)だよー」と紹介してくれたときなんて、「えー、やだ!Kちゃんが話してよ」という声があがったくらいだ。
でも、おはなしを語り終えたとたん、そのふんいきは霧散して、子どもたちがいっぺんにうちとけたことがわかった。
「短い!」「それだけ?」と言って、さわってくるようになった。ねえねえ、何歳?と聞いた。
それはほんとうに短い、つたない語りだったのだけれど、おはなしそのものの力と、Kさんたちが子どもたちの中に積み上げてきた、「おはなしをするおばさんは好きなおばさん」という信頼が、垣根を取っぱらってくれたのだった。
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おはなしをおぼえるとき、手を携えているのは、おはなしだけじゃない、その子どもたちに背中を押されて、一緒に山を登っている。
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子どもたちはいまも確かに存在して、おはなしを待っているのに、それを届ける場所が、このコロナ禍で切れてしまった。
オンライン配信や、広い会場で離れてやれば、ということも可能なのかもしれないが、あの、くっつきあって座って、かたずをのんで聞く濃密さあっての「おはなし」、というのが、すごくよくわかるのだ。
でも、それが可能になるまで、ぜんぶなくしてしまっていいのか、という思いは晴れない。そもそも、可能になる日がくるのかなあ。
そこまで求めるのは、話し手の側の自己満足なのかな、と思うこともある。
おはなしは、演劇のような自己表現とはちがうけれど、聞き手の反応からもらう快さというのは確かにあって、与えるというより、おはなしを媒介に、一緒に旅する、作っていく、という相互作用から生まれる喜びだ。
そこからもらえる満ち足りた気持ちは、山を登る原動力のひとつではあるけれど、それは、子どもの側も満ち足りてはじめて生まれる喜びなので、だからベテランの話し手こそ、何かぷつんと糸が切れてしまった感じがするのだと思う。
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にんげんは、他者との関わりによって作られているんだなあ、とAさんと別れて歩きながら思った。
承認欲求とか、人の反応を気にする、とか、やっかいな要素として言われることも多く、もちろん程度問題なのだけれど、他者の存在なくして、私たちは自分の行動原理を決定することがむずかしい生き物だ。
卑近な話をしてみれば、ちゃんと遅刻せず仕事に行くのも、締め切りに間に合うよう文章を書くのも(それが今だ!)、着る服を選ぶのも、人を好きになるのも憎むのも、他者あればこそである。
わたしなんか、外で働いていなければ、永遠に起きないし、お風呂だって入らない。
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ホームレスの支援をしている人がインタビューで言っていたのだが、住所を持つことが、就労(=路上からの脱却)にとても大事なことなので、その手伝いをするのだけれど、アパートを見つけて入居できることになっても、それだけでは十分じゃない。路上のテントで、きちんと整頓して秩序だった暮らしをしていた人が、アパートでそれができず、ゴミだらけにしてしまったりすることがあるのだそうだ。それは、訪ねてくる人の不在、自分と関わる人の有無が、そうさせるのではないか、とその人は言っていた。
それは、意思が弱いとか、だらしがないとかとは違うことのように思う。
自分だけのために、人が何かをするということは、じつはあまりないのではないだろうか。
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目の見えない人が、音をたてて、はね返ってくるその反響から、周りの様子を知ることがあるように、私たちも他者や外部とのやりとりを通して、自分の輪郭を形づくっている。
人目を気にするな、とか、自分をしっかり持て、とか言われながら、その「自分」も、「自分が好きなもの」も、じつは他者との比較や相違からできていて、自分が選び、身につけたものと、外の世界との摩擦(あるいは調和)が、自我を削ったり肉付けしたりして、「個人」ができていくのかもしれない。
だから、それに疲れれば、何もかも切り離して、孤独を求めたくなる。
そのうえ、今は、身体的な意味でも人との距離に気をつけなければいけないのだから、ほんとうに混乱するのだ。
ふたたびの感染者増加で、じつは今日友人とランチをするはずだったのが延期になった。
毎日混んだ電車で通勤して、職場ではたくさんの同僚や不特定多数の利用者さんと接していてさほどストレスもないと思っていたのに、延期にしましょうと連絡を取り合って、残念半分ほっとしている自分がいる。
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この世も自分も、ほんとうにやっかい。
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By はらぷ
※「なんかすごい。」は、毎月第3木曜の更新です。
※はらぷさんが、お祖父さんの作ったものをアップするTwitterのアカウントはこちら。
Jane
シジミ蝶のような、陶器のような、アジサイ。露の溜まった葉は里芋?昔、その露を集めて墨をすったような…。
「誰にもたのまれてない山登り」とか「残念半分ほっとしている自分」とか、私のことみたいでした。
はらぷ Post author
Janeさん
こんばんは!
紫陽花、咲きたての瑞々しさもいいけれど、すこし褪せてからがことのほか好きです。この写真は、上野の不忍池で撮ったのですが、このあたりの紫陽花は、青と赤紫の混合で、ひとつの株の中でグラデーションをなしているようなのが美しかったです。
土壌でしょうか?
2枚目の写真は、東上野のビルの谷間の謎の植え込みです。里芋かな、クワズイモかな…。根本にはゼニゴケがびっしり繁茂していて、ダンゴムシの楽園になってました。
里芋や、蓮の葉に露がコロコロと溜まるのは、葉の表面に無数の微細な突起があるからなんだそうです。
見ていると、死んだらみんな仏様になって、蓮にすわって甘露飲んでくらすんだわー、という気持ちになってきます(笑)
相手への好意や会いたい気持ちとは別に、家にいることを誰からもとがめられない悦びみたいなものを感じてしまうのってなぜでしょうね。
ひきこもりのお墨付きを与えられたようなものでしょうか。