ああ、秘密。子どもと大人のあいだ。
「おかあさん。なんか奥歯が痛いんだけど」
すわ虫歯かと息子の口の中をのぞき込む。下あごの左右に親知らずが生えていた。
歯といえば思い出すことがある。小学校の身体測定は、保健室であった。脱衣籠をずらっと並べて、下着一枚で測定の順番を待つ。待っているあいだは私語厳禁だったので、白い薬品キャビネットの中身を覗いたり、キャビネットの上の大きな歯の模型を見たりして暇をつぶした。
ピンクの歯茎に真っ白な歯がずらりと並ぶその模型は、大きな歯ブラシとともに歯磨き指導に使われる。保健の先生は、ぱっくりと開かれた模型を左手に、右手に大きな歯ブラシを持って、「ごしごししゅっしゅっ」と歯ブラシを動かされるのだ。
その模型を見上げていて、あるとき「あ。」と声を上げそうになった。
立派な歯の模型はきっちりと上の歯と下の歯を噛み合わせている。わたしも倣ってそれをしてみると、わたしの歯は模型のように上下垂直には噛み合わない。模型どおりに上下の前歯を揃えてみるとたいへんな違和感がある。保健室の隅にある洗面台の鏡で自分の顔をちらりと見ると、下顎を前に突き出したいつも以上に角張った自分の顔があった。
どうしよう。わたしの顎の関節は間違っている。
「どうしよう。どうしよう」。かなり長いあいだ一人で抱えていた「秘密」は、あるとき一気に氷解した。
「わたしもよ」「ぼくもだよ」
先週、月亭つまみさんが「漢字のラビリンス」の扉を開けてくれたけれど、わたしは筆順が(も)甚だ怪しい。
「右」とか「必」とか「飛」とか、正しい筆順で書こうとするとかたちがとれない。無理して正しく書こうとすると、上下の前歯を揃えたときのような、ぎこちなさともどかしさを感じる。
この年になると、この手のことの修正はたやすくはない。へたに修正を試みると漢字のもともとのかたちにまで疑念がわいてしまう。通っているお習字のお稽古は、ときどきわたしを書き順のラビリンスに誘い込む。
もともと歯の悪いシュジンが「とうとう入れ歯になった」と言うので仰天したら、右の犬歯が一本入れ歯になったのだと言う。夜、洗面所の片隅には青いプラスティックケースが置かれるようになった。夜だけなら仕方がないかと見て見ぬフリをするけれど、それは出勤後にもそこにある。そのままシュジン専用の引き出しへしまう。
「必」や「飛」、「凸」や「凹」や「も」、などなどが正しい書き順で書けないことも秘密だけれど、シュジンの青いプラスティックケースを引き出しにしまったあと、しかめっつらで手を洗っていることもここだけの秘密だ。
シュジンは結婚前「今まで僕がはなしてきたことに一点の嘘偽りもないし、秘密もない」と言った。えらくごたいそうなことをあの顔で言ったものだが、本人はいたってまじめだったのでこの発言に茶々を入れる気はこれからもない。
確かに本人の言うとおりだと思う。このひとには、嘘や秘密はおろか見栄や虚勢というものも一切ない。でも、「入れ歯ケース」を家人の目に触れないようにしかるべき場所にしまうくらいの思いやりとデリカシーは持つべきだとわたしは思う。
「わたしは思う」と書いて、ときどきあの保健室の模型を思い出す。「これはきっとひととはちがうな」と確信犯的に独自の主張をするときはこの限りではないけれど、「これがふつうだ」と思って疑いもなく体内(口中)に収めていたものごとが、実は間違いかも知れないと疑念を抱いたときの孤独感はなかなか深い。ただそれが後日になって、「あながち間違いではなかった」と知ったときの安堵もまた味わい深い。
「あのさ。僕は幼稚園のころからずっと考えていた秘密なんだけどさ。うちの両親に夫婦愛はあるのか、って」
幼稚園の頃からって、それはまた長いこと秘密にしてたのね。それであなたの言う「夫婦愛」ってどんなの?と聞き返すと「それは今はうまく答えられない」と息子は言う。
「うまく説明できない。そういうものも世の中にはあるでしょ。うまく説明できないからおもしろい、ってことだって」。
久しぶりにまじまじと覗き込んだ息子の口は、薄桃色のやわらかな歯茎に乳白色の歯が行儀よく並んでいた。大人の口ではなかなかこうはいかない。これはまだ本当の秘密をもたない口だな、と思った。
nao
こんばんは
子どもは何でもしゃべっちゃうから、秘密は大人だけが持てるものだと思ってました。
息子さんの秘密にびっくりしました。
両親の夫婦愛っていうものすごいけど
幼稚園からというのがホント信じられないくらい。おっとなだなぁー!!
うまく説明できるようになったら、教えてくれるんでしょうか?
何でもついしゃべってしまう子どもな私は
つい最近秘密を持てるようになり
こころの宝箱に入った「嘘」や「秘密」を時々ながめてうっとりしています。
あーちっとも大人じゃない。。
サヴァラン Post author
naoさま こんばんは。
しゃべりますねー。子どもは何でも。
息子の秘密
実家の母に話しましたら
「そりゃそう思うのも無理ないわ」と
高らかに笑っておりました。
「夫婦愛」、その後の本人の説明では
「ラブラブ♪とかじゃなく…」
「ねえダーリンなにハニーとかでもない…」と。
「だったら何?」と問いただすと
「時間が欲しい」と申してました^^
naoさんの秘密
それ素敵ですねー。
わたしもなんかなかったかなー。
大人の秘密。静かにそっと、どうぞお大事に♪