ああ、鼻歌家事。まじめさとふまじめさのあいだ
もしも~わたしが~家を建てたな~ら~
小さな家を建てたでしょう~ ♪
小さな家の中には 洗濯室が欲しい。衣類や洗濯まわりのことが、ここでコンプリートするような洗濯室が欲しい。
大きな窓と白いパンジー。それを夢見ることは微笑ましいけれど、「洗濯室がほしい」と言うことは微笑ましくはないらしい。
「そういうことは贅沢ってもんです。家事なんてものは、与えられた場所で与えられた環境で知恵を使ってやるものです」。
家事ってどうも、見えない誰かのお小言が、主になぜか日当たりの悪い方角から、聞こえてくるからやっかいだ。
高校の家庭科の内藤先生は、わたしたちから「ないババ」と呼ばれていた。「まったく。こんなこともできないなんて。あなたのお母様にお会いしてみたい」。この一言で、ないババはわたしたちとの関係性を決定づけた。
ないババは数字で家事をしろと言った。基本的な調理の方法にも科学的な裏付けがあるのだから、まずはその配合のルールを覚えるのだと量りと電卓を多用した。ないババは「家計簿」にもうるさかった。「今の女性は家計簿もろくにつけないそうですが、そんなことはとんでもないことです」と目を吊り上げていた。
ないババはとても小柄だった。小柄なわりに強かった。調理実習の板書には「にんじんはいてふ切り」と書き続けたし、女学校のときに成績が優秀で学校から金時計をもらったはなしは、一年のうちに三度は聞かされた。校内ですれちがっても、温度のない会釈しかしない女子生徒の中にあって、ないババはいつも糊のきいた白衣でつんつんと歩いていた。
「まったく。今のひとはろくに家事ができません。家事というものをとても軽く見ている。家事・家政を軽く見るとどういうことになるか。今にとんでもないことなります」。ないババの口調はまるで呪いをかける魔女のようだった。白衣のないババも腰が曲がっていた。
「婦人の友」という会の「友の会」というものに、ある時期誘われたことがある。わたしはクリスチャンでもなんでもないけれど、たまたま知り合った教会関係の方にそれはそれは熱心に誘われた。
教会と家事。いわく離れがたい結びつきがある気がする。
「婦人の友」的家事というものに、基本的には憧れがある。憧れはあるもののわたしのようなぐうたら主婦は、とてもとても「友の会」には入れない。
若いママ友のあいだでは、伊藤まさこさんとか雅姫さんとか内田彩仍さんなどの「オシャレかわいい家事」が人気のようだ。
そういえば、栗原はるみさんなども元祖「おしゃれ家事」の先駆者なのかも知れない。栗原さんは料理家として人気を得る一方で、ご主人とともにレストランや生活雑貨を扱うお店のビジネスでも活躍されている。
「友の会」的な家事の手法と栗原さん的な家事のあいだには、どこかで目に見えない違いがあるなあと思う。まして「ないババ的家政」ともなるとますます「家事」への意識の溝は顕在化する気がする。
「家事というのは家族への愛情です」。「家事というのはお寺の修行と似ています」。
「お寺」とほとんど縁のないはずの実家の母はよくそう言った。京都のお寺に観光に行って母が言うのは「このお寺はいいお寺です。お掃除が行き届いています」。ということだった。
それでも4年に一度くらい、「わたしはあなた方の家政婦じゃありません!!」と今流の言葉で言えば「キレる」ことがあった。「家政婦さんというのは立派なプロの仕事です」。普段の母の主張とは齟齬があることも、手に持った棕櫚のほうきで掃き散らす勢いだった。
そもそも家族の目には、そのとき何がどう母の逆鱗に触れたのかは皆目わからず、わたしは「ああ、今年はオリンピックイヤーだったな」とこころの中でつぶやいていた。
義理の母は「わたしは家事ができないの。お父さんにもそう言っていつも笑われてるの」、と言いながらかわいく笑う。この義理の母に「愛情」がないかというと決してそんなことはない。義母の家は決して「整っている」とは言えないけれど、決して「ダメな」家ではない。義母は「キレる」こともなく一生過ごすだろう。
日曜日。息子が「スクランブルエッグ」を作った。学校の調理実習で習ったばかりだそうだ。わたしが以前、「あなたの卵の溶き方は、手首の使い方がなってません!手首と言うより腕の使い方全体に問題がある!こういうことのコツがすぐに呑み込めないのは、そもそもあなたの注意力に問題があるからです!キーーーー!」となったのを彼は覚えていて、「おかあさん、ぼく上手に溶けるようになったでしょ」と言う。
鼻歌まじりで仕上げた「スクランブルエッグ」は、ふんわりとろりといいできばえだった。
鼻歌まじりの家事。
息子にはそういうリズムを身に付けて欲しいと思う。そうすれば彼の可動範囲は広がるし、将来の彼のパートナーの可動範囲も広がるに違いない。
毎日の家事にはいろんなものが混じり込む。
何もない、ということも含めていろんなものが。
「丘をこ~え~行こうよ~♪」今日の鼻歌は、コレ。
爽子
こんな不出来なわたくしも、新婚当時から、約7年間、友の会推奨?の家計簿(家計当座帳とペアで)を
使ってました。
本箱に並ぶと、ちょっとキチントさんな気分がしないでもありませんでした。
ごくごくまじめに家事をしておりました。・・・・当時は。
7年目に、義母の御機嫌を損ねる出来事があって、激怒した義母がそのずらりと並んだ家計簿をひっつかんで、床にたたきつけたのでした。
一瞬、床にへたり込みましたが、しばらくして、立ち上がる時は、「もう、やめた!」と思ったのです。
家事に愛情をこめることも、ていねいに暮らすことも。
なにしろ、いきなり床にたたきつけられたんですから。
お義母さんありがとう。
私が自分で自分を縛りつけてた「ちゃんとやらなくちゃ!」から、解放されるキッカケをつくってくれて。
家事に愛情をこめなくなったら、「~のに。」という考えがわかなくなりました。
すっかり作業です。
快適です。
友の会のみなさんが、朝イチに出ておられるときは、憧れの熱いまなざしで、見ています。
とっても、勉強になります。
プリン状石鹸、好きでよく使っております。
サヴァラン Post author
爽子さま
わたしは5年だけつけました。
羽仁とも子さん考案、婦人の友社の家計簿。
でもわたしには「まず予算ありき」のあの方法はだめでした。
だって必ず想定外の出費が出てくるんですもの。
それをどの費目で処理するか
ほかのどの予算から調整するか。
5年やって「わたしには合わん」ということが検証できました^^
爽子さま
ご同居なさってるんですね。。。
尊敬します。
むかし男友だちにこんなことを言うひとがいました。
「女のひとが愛情をこめて家事をするのはいいことだと思うけど、
その愛情が怨念になるのをぼくら男は心底恐れている。
ママタレントがよく『どんなに忙しくても子どものお弁当は作ります』
って言うけど、あれも僕が子どもだったら正直言って怖い」
「○○してあげてるでしょ」「○○してあげたのに」
そういう言外の言葉が聞こえるのだそうです。
「否が応でも感謝しなければならない」空気や
「絵にかいたような」予定調和がイヤだと言った彼は今も独身です。
「~のに。」という考え
つくづくクセものですね。
「~のに。」と見返りを考えない爽子さまの「快適家事」、
さわやかですてき。
わたしも友の会のみなさんのあのお揃いのエプロン姿に
いろんなものを考えさせられます。
プリン状石鹸、計量はしてませんけどわたしも使ってます♪