ホルモンを性の欲望に置き換えても、いいのかもな。欲望のいいなり・・・とか。
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【カリーナ → あきら 2014.9.11】
そうなんですよ。「性欲」は、
ものすごく異質の人と
強烈に出会うチャンスなんですよね。
もろもろを跳び越えちゃうの。
あきら様
いやあ。遅くなってすみません!
あれから心が揺れておりました。
ダラダラ書きますのでテキトーに読んでください!
東浩紀の「弱いつながり」という本を読んだんですが、
そのなかにの「人生のダイナミズムに必要なノイズ」という項目があり、
・・・・ちょっと前後の文脈をぶっちぎりますが
そう考えると人間に「性」があるということはとても重要です。
なぜなら性の欲望は、まさに人生にノイズを入れるものだからです。
一晩を一緒に過ごしたという関係性が、
親子や同僚といった強い絆をやすやすと超えてしまう。
社会的に大成功を収めていた人が性犯罪で破滅することがあるかと思えば
まったくの敗北者がいきなり性のパートナーになったりする。
そういう非合理性が人間関係のダイナミズムを生み出している。
(中略)
人は性欲があるからこそ
本来ならば話もしなかったような人にはなしかけたり
交流をもったりしてしまうのです。
その機能は「憐み」ととても近い。
最後の「憐み」はながながとその前に定義されているので
ちょっとわかりにくですが。
「性欲」の魅力、その機能、その効果を
うまく説明していると感じました。
性の欲望は、
べつの人生との出会い、
階級を超えた出会い、
それまでの人生の成功・不成功を乗り越える出会い。
その可能性なんだ、と。
跳躍すること、というか。
つまり、なんつーか、人生を足元から変えるような
出会いへ向かわせるエンジンなんですね。
みんな、「ときめきたい」「新しい恋がしたい」と
いくつになっても、結婚していても口にするのは、
いろんなものを飛び越えて
新しいものと出会いたいという願いなんじゃないだろうか。
わたしが、性欲が消えていくことを嘆いているのは、
そういう非合理な、わけわかんなくなるような出会いへの欲望が
消えていくことを嘆いているのかも。
シャーロットランプリングが
眠そうな夫(本を読んでいた)に近づくところは覚えていますが
それからセックスした的描写がありましたか。見逃していますよーー。
「愛の渦」、知らんかった。
「恋の渦」、とは別なんですね!
今日は夕方から「東京トライブ」を見に行きます。
セックスを語ることで
解放されるようなコンテンツってないですかねえ。
【あきら → カリーナ 2014.9.13】
恋することはうぬぼれること、
自らの欲望に仕えることなのかも。
実は、対象との関係は希薄?
カリーナ様
東さんの文章、とーっても興味深く読みました。ありがとうございます。
とてもとても惹かれました。これに惹かれるというのは何なのでせう?
読み解く力が無いのが残念なのですが、この前みた映画の「飢餓海峡」のことなどを
思いました。欲望のもたらす非合理性。あるいは恋することもそれに近いようにも思えます。
加えて、恋することは自惚れること、自らの欲望に仕えることに
重きがあるかもと感じる昨今です。
対象との関係は、もしかしたら希薄なのかもしれません。
そうか、性の非合理性といえば鶴屋南北でもいいし、シェークスピアでもいいしってことですね。
ポンと膝をたたくの巻(笑・今さらか?!)
物語性を孕みやすいってことでしょうね。欲望だから当たり前か!
欲望含みの物語性への興味 と ムラムラ単体 とは少しニュアンスが違うのかもしれないですね。
まったく脈絡なしですが、作家の川上未映子がマタニティーブルーについて
「 ああ、ホルモンって偉大やね。
わたしら、ホルモンの奴隷やね。
気分も体も
ホルモン様のいいなりやね・・・
そんなことを思い知らされた
一年弱だったなあ 」
と書いていました。
ホルモンを性の欲望に置き換えても、もしかしたらいいのかもな、とか。
欲望の奴隷。欲望のいいなり。 ・・かな。
もしそうであれば、解放されているのか?
「まぼろし」冒頭は、深読みしすぎかもしれません。
あるいは、しなかったというふうに読むのが正しいのかも。
すいません、あいまいで。どちらにしても意味があるのに。。
あの夫婦はそのむかし、うんと若いころ、
※肉体のなんやら(邦題がいいかげん)という映画で共演していて、
観てみてもあまり理解できないフランス風だったのですが。
主にシャーロットの方は、いくぶん、よりそういうアイコンとしての
ニュアンスを含んだ「まぼろし」でもあったようです。
(精神病として閉じ込められた富豪の娘で、
ベッドに通ってきていた庭番の目をつぶし、たまたま出会った夫役の彼を愛し・・・)
※映画「愛の肉体」のこと→★
「恋の渦」もちょうど昨晩観ました。
ばかばかしいようにも思いますが、人はばかなのかもしれず。
たぶんばかなんだろうな、としか思えず。あーばかばかとなりました(笑)。
「愛の渦」の方がよく出来ているかと。
ワタシには語りたいことの芯も捉えられず。セックスを語ることで解放されるのは
語る本人だけなのかもしれず。セックスだ欲望だと誰かが言っているだけでは
コンテンツとしては機能不全でしょうね。
人から見ればわかりきっている気もしますが、
ワタシがセクシャリティーなどとほざくのも、
結局欲望を満たしたいってことだけなのじゃないかと思えてきました。
自己肯定したいだけじゃないかと。あーばかばか。
とりとめもなくてお許し下さい。
れこ
こんばんは。毎週土曜の夜を楽しみにしております。
我が家は映画DVDのレンタルはDMMを利用しているのですが、
偶然なのかどうなのか、「まぼろし」と「17歳」が同時に届いたので
2日連続で観賞しました。
鑑賞中は「あ、主人公とこの人が関係を持ったら嫌だな~」と
いう心配をしつつ(大体外れるのですが)、淡々と観終ったのですが、
こちらに掲載された過去の文章や、その他のレビューを後から読むと、
冒頭の夫婦の関係性など、解釈の深さにううむと唸らされるのでした。
これは経験の浅さからくるのかもしれません。
5年後、10年後に改めて観たら、きっと感触が違ってくると思います。
その日を楽しみにしたいです。
また、「ホルモンの奴隷」と言う表現に関連した話を、
先日「スーパープレゼンテーション」という番組で見ました。
ハリガネムシの話です。
ハリガネムシは、コオロギ(カマキリやバッタの方が有名かも)に
寄生すると、コオロギの脳を操り(タンパク質に変化を与えるとか?)、
コオロギを「入水自殺」させるよう仕向けます。
コオロギが溺れると、ハリガネムシは宿主の腹を破り水中に飛び出して、
そこでめでたく交尾をして産卵する…というストーリーでした。
繁殖して遺伝子を連鎖させるために、
ホルモン(欲望)によって脳を操られる…という風に置き換えると
これはまさに私達の姿に重なるのではないのかい、とふと思うのでした。
しかしながらそう断言すると、逃れられない業の様なものを感じるので、
この往復書簡で語られる「解放」というのは、
「定義された性」という檻から脱獄する試みなのかもしれませんね。
あきら
>れこさん
コメント、とーってもありがとうございます。
オゾン監督の2作もご覧になって下さったんですね。
付き合って下さって、うれしいです。
ハリガネ虫の興味深いはなしも。
ワタシ、弱っているせいもあると思いますが(苦笑)
なんだか生きていくって大変過ぎるわね、と読ませてもらいました。
いやはや、虫さんも。