あらゆる衝動や罪や芸術や創造や、もう何もかも、そのはじまりは「寂しさ」だね。
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【カリーナ→あきら 2016 2.11 06.43pm】
脱毛かあ。わたしなんか、わきの下は、自然脱毛状態になってる(笑)脱毛しなくても、毛、ないんじゃね?状態。あきらさん、毛深かったっけ?その脱毛のサロンの話、前に教えてもらったレバノン美容院の映画の、会話みたいだな。その、ものうい感じが(笑)(注・映画は「キャラメル」でした。あきらさんの記事は、こちら。)
オダギリの「FOUJITA」、観ました。封切直後に、映画館で。もう、作品がどうこうっていう前に映像が暗かった。オダギリがどこにいるか見つけるのに苦労した(笑)。岸辺一徳も、あの特徴ある声が聞こえて「あ、あの農夫は、一徳さんか!」ってわかったくらい。もう、ほんとに見えないの。
「死の棘」みたく、日本アカデミー賞にオダギリを導いてくれるかと期待したけど、小栗監督、ちょっと、自己模倣していないだろうか。芸術作品的であろうとしていないかなあ。いいところも、もちろん、あったんだけど。
「SWITCH」のシューズデザイナー・舘鼻則孝氏との対談、あまり共鳴しているように見えなかったな~。ただ、オダギリジョーの今の苦しみは痛いほど伝わってきた。20代で強烈な表現のできた人は、中年期に苦しむよね。もともと成熟を拒むところがあるから、なかなか適応できなくて苦しむと思う。でも、そういうところが好きだな、やっぱり。20代に輝いて中年期に苦しんで老年期に輝く人が好き。中年期は「常識の季節」だから。
たとえば、レベッカのNOKKOにも、そういう老年期を期待してる。昨年の紅白歌合戦に、どんなオーラも身にまとわず、頼りなげに出てきたところに心打たれた。
あ。話が脱線しちゃった。
あきらさん。
あらゆる衝動や罪や芸術や創造や、もう何もかも、そのはじまりは「寂しさ」だね。ほんと、そう思うよ。あらゆる衝動や罪や芸術や創造や、もう何もかも、そのはじまりは「寂しさ」だね。
京都にダムタイムというパフォーマンスグループがあってね。もう亡くなっちゃったけど古橋さんという人が、あるベテラン演出家の長くて難しい文章を読んで「この人、寂しいんだね」って言ったことがあるんです。雑談のなかで出てきたことだし、率直に感想を言っただけだろうけど、それを聞いて「ああ。そうかもしれないなあ!!」ってすごく納得したんです。寂しさってさ、過度な理論武装となって表れることもある。人によっていろいろなカタチになって表れて、他人を感動させたり、組み伏せたりするんだなと。
ねえねえ。「淋しめる鎖骨のくぼみ春近し」って誰の句??すごくいいな。あきらさん?
お友だちの「もう女を表現したくないと。きちんとした大人の人でありたい」「同年代が無意識に男性に対して出すそれを見たくないと」というのは、とてもよくわかる。でも、同時に、いくつになっても「見苦しくてもいいんじゃないか」「みっともなくてもいいんじゃないか」と思うところもある。この点については、ずっと、「どっちでもいいんじゃね?」って姿勢でいくつもり(笑)
だって、あれですよ。人間は生きている限り活火山だから。
休火山になっていても、いつ、何かの拍子で噴火してマグマが流れるかわかんないよ。
あの静かに見える富士山だってそうなんだから、活火山なんだから。わたしだって。
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