第211回 わたしが・棄てた・もの。

佐藤知津子さん
まゆぽ:
リフォームのための引越しを機に、いろんなものを捨てた。
特に何冊ものアルバム。
意外に未練なく、数枚を残してバサバサ捨てた。
でも、生まれた時から小学校までの
アルバム2冊は捨てられなかったの。
自分の記憶にない時代の写真だから。
亡くなった祖父母、伯父叔母などの若い顔が見られるから。
写真を撮りアルバムを作る若夫婦だった両親の記憶のため。
40代後半の頃、あるおひとりさまの友人が言った。
「写真を1年に1枚だけ残すことにして、あとは全部捨てた」。
60代後半になって、この言葉が刺さってくるなあ。
まだ、写真捨てプロジェクトは道なかばだわ。
捨てたいものは他にもいっぱいある。
年々頑固になって自分ルールに縛られがちなんだけど
(金曜日はキッチン掃除するとか、40%切ったらPC充電とか)、
そういうのを捨てて自由になることも課題だなあ。
ちなみにタイトルは遠藤周作の小説パクリです。
「棄てる」は「捨てる」より強い意味らしいよ。
つまみちゃんは何か最近棄てたものはある?
つまみ:
小学校までのアルバムが2冊もあるのかー
と、微妙なところに感じ入ってしまった。
「若夫婦だった両親の記憶のためにも残す」ってなんかジンときた。
確かに、写真と手紙は棄てづらいよね。
後悔しても取り戻せないからかな。
代替品がないっていうか。
動物と暮らすようになって以降の写真は
なにげないスナップでも捨てられなくて
1年に1枚という境地は夢の彼方かも。
私は、義母の介護が大変だった頃に克明につけていた記録を棄てた。
ある日突然、これ、なんのためにとってるんだろうと思っちゃった。
いかに自分が頑張ってたかを忘れたくないってことか? 義姉へのマウント?
いやいや忘れていいんじゃね?って感じかな。
義姉への当時の恨みつらみは記録を棄てても忘れないだろうけどね。
棄てることでむしろ自分の怖さに気づく!?

「お月見の日」佐藤知津子さん
まゆぽ:
「若夫婦だった両親」は高度経済成長期の
元気一杯な日本の象徴みたいな気がするから。
もう2度とああいう時代感は持てないだろうと思うとね。
お義母さんの介護記録、
お義母さんにしたら棄ててくれてよかったと思ってるかも。
棄てる怖さと棄てる優しさと両方あるんだよ、きっと。
モノの裏にある「思い」だね、やっぱり棄てて気になるのは。
でも、思い方が中途半端なんだよな、私は。
母が揃えた草履とか帯とか着物周りのものみんな捨てたくせに
着物1枚だけ捨てられなかったし、
猫の骨壺3つは、私の骨と一緒に撒きたいけど
結局自分ではどうにもできなくて人任せになりそうだし、
ロマンチックが止まらなくて
ノスタルジックが中途半端だ。
つまみ:
胸が~胸が~苦しくなるぅ~♪
C-C-Bはココナッツボーイズの略。
どうでもいい豆知識。
私は、モノや人に対する思いは中途半端でいいと思うな。
一途とか、いけずとかに一貫性があり過ぎる人ってちょっと怖い。
気持ちなんて変わるしさー。
変わっちゃいけないなんてことないよね。
なんであのとき、あれは棄ててこれは残したんだろ、とか
よく思うけど、わからなくて当然だと思う。
だって、あれを棄てたときの自分と今の自分は違うもん。
なあんて、自己弁護でもあるわけですが
ことほどさように、棄てるのは勢いだし
使い古された言い草だけどデトックスなので
私はこれからも、いろんなところがぎちぎちになったり煮詰まったら
モノを棄てることで改善をはかろうと思います。
それにしても棄っていう字、
パーツは先鋭的じゃないのに、躊躇がない感じの要塞みたいな漢字。
唾棄、廃棄物、自暴自棄、文書毀棄罪‥と浮かぶ熟語も容赦ない。
それだけの覚悟をしろよ、と字に言われてるみたい。

「トンボ」佐藤知津子さん
まゆぽ:
「棄」の字は確かに迷いがないね。
「捨」てたものはまた拾える気がするけど、
「棄」てたものはもう2度と戻らない感じだ。
遠藤周作の『わたしが・棄てた・女』も
「捨」じゃなくて「棄」だから余計に男の残酷さが伝わる。
つまみちゃんのように勢いがないし、思い切りも悪い私は、
「これは棄てるんじゃなくて捨てるだけ」と
モノに未練を残しながら生きていくんだろうと思います。