【月刊★切実本屋】VOL.39 消えるもの、またはきえもの
このサイトのTwitter公式アカウントをご存じだろうか。このアカウントでは、最新記事の更新の告知と、それにまつわるメンバー有志のコメントが発信されているが、何時間かおきに、自動的に過去記事がランダムにツイートされてもいる。実は最近、これに救われた。
先週、パソコンが壊れた。少し前から「そろそろヤバいかも」と思う徴候はあったので、仕事関係のデータのバックアップだけはとっていたのだけれど、それ以外は、そのうちやろうと思ってそのままにしていた。
あ、いけない!と思った時…すでに遅し!
住所録が
何年にも及ぶ読書備忘録が
簡易手作り家計簿が
家で介護していたときの義父母の各種の記録が
自分が書いたあまたの雑文が
大量の画像が、雲散霧消した。おおげさかもしれないが、自分の十年以上の歴史のけっこうな部分が消えてしまった。
しばし、呆然自失。
今、パソコンのない生活はちょっと考えられないので、頭を抱えながらもAmazonで新しいパソコンを注文した。それはわりとすぐに届き、軒並みパスワード忘れの中、なんとか各種の設定をすませ、やれやれと一息ついた。
その間の生活は思いのほか快適だった。今まで、ムダにパソコンの前に座っている時間がいかに長かったを思い知った。読書も捗った。あら?パソコンなんてそんなに必要ないかも、とすら思った。
思ったのだが、新しいパソコンのがらんどうな中身(ドキュメントやピクチャ)を目の当たりにしたら、あらためて、もう自分には新しいパソコンしかないのだ、古いパソコンの中の、あのみっちりした中身を、自分はもう二度と見ることはできないのだと実感して凹んだ。
それは、寂しいとか不便というより、過去の自分に「ちゃんとやっとかない方が悪い。自業自得だから!以上!」と一刀両断に斬り捨てられたみたいな、理不尽に傷つけられたような気分だった。
間違った被害者意識(明らかに被害者ではないし)丸出しでバカみたいなのだけれど。
ちょうどそのタイミングで、公式アカウントの【過去記事】に、自分が以前書いた2つの文章がツイートされたのを見た。この記事だった。⇒★ ★
そこには、昔の職場や上司の思い出を楽し気に慈しんで書いている自分がいた。自分で言うのもなんだが、イキイキとした筆致で微笑ましく、妙になつかしかった。そして思った。
なんだ、自分の思い出や歴史、消えてないじゃん、ここにあるじゃん、と。
このサイトに参加していてよかった。パソコンの中身は消えても、7年間このサイトに書いてきた文章はちゃんと在った。消えてない。びくともしてない。自分のうかつさで、瞬時に斬り捨てられることも、たぶんない。
消えるときはあっけないものだし、消えないと思っているもののほとんどもいつかは消える。でも、消えたものがすべてではなかったりするし、消えたからといって必ずしも終わりではないのだよ…と、サイトの公式アカウントに、いたずらっぽい目でそうささやかれた気がして、ちょっと救われたのだった。
そんなドタバタした中、読んでいたのは、高山なおみさんの『きえもの日記』だった。
ドラマや映画撮影の際、一回だけで消えるものを「きえもの(消え物)」と呼ぶらしい。料理やお菓子や飲み物という、口にすることで消えるものだけでなく、花や、火をつけたロウソク、破る手紙なども入るのだそう。この本は、私が偏愛する脚本家&小説家である木皿泉さんのドラマ「昨夜のカレー 明日のパン」(2014年にNHKBSプレミアムで全7回で放送)の料理を監修した著者の、その奮闘記だ。
料理家、そして文筆家としても人気の高い高山さんの本を、私は今までちゃんと読んだことがなかった。何年か前に、木皿泉さんと高山なおみさんのトークイベントに行ったのだが、それでも特に高山さんの本を読もうという気持ちにはならなかった。要するに、私は高山さんにあまり興味が持てなかったのだろう。
でもこの本は別。木皿ドラマにまつわる日記だし、このドラマは料理が重要なモチーフで、それがとてもいい感じに仕上がっているなあと感嘆しつつ見ていたので、「5年も前に出ていた本だったのに気づかなくて(忘れてて?)ゴメン」と思って読んだ。面白かった。
監修を引き受けるまでの逡巡、タイトルバックの映像の裏話、舞台になった飯能の古民家に作った即席調理場のこと…なども興味深かったが、もっと何気ない、たとえば、岩井さん(溝端淳平)が焼きそばを作るシーンで、OKが出た後に菜箸のまま焼きそばを食べたこととか、虎尾(今をときめく賀来賢人!)が食したアジフライに小骨が残っていて猛省したとか、良かれと思ってお弁当にニンニクを入れたことに反省しつつ傷つく気持ちとかがリアルでよかった。
この日記の高山さんは終始、悩み落ち込み反省している。彼女はドラマの料理監修という仕事は合わないのじゃないかと思う。それは、誰にでもしっくりする分野とそうでもない分野があるってことで、揶揄ではない。
読み終わった後に当然またドラマを見た。それまで何気なく見ていた、卵かけごはんを食べ終わった後のお茶碗、焼売の温め方、魚用の網で焼く食パン、法事のお料理、お総菜屋(パワースポット)のメニュー…などなどが装いも新たに(?)立ち上がってきた。
このドラマには印象的なセリフがたくさんあるが、今回はヒロインのテツコさん(仲里依紗。巧い!!)が言う「手放すのは忘れることじゃないよ。生きる方を選ぶことだよ」にグッときた。
私、古いパソコンに入っていたものは「不注意で失くした」ではなく、「手放した」ってことにしたいんだな、きっと。
by月亭つまみ
Jane
つまみさんが手放したものに比べたらとても少ないのですが、私も前に投稿待ちのカレー短歌と投稿した記録をコンピューターに入れておいて、自分のミスで一瞬で失くしましたよ。そして、過去に掲載された投稿をさかのぼってそれだけ紙に書き写しました。で、あとのものは「日々の愚痴が天国に昇華」ってことでせいせいしました。
Jane
「消えもの」についての記事、今コロナの影響で「消えもの文化」がまさに消えようとしているのを目の当たりにしているだけに、考えさせられました。消えるものであるからこそ美しく貴重なのに。
「消えもの」は自分の心の中にもあるものですが、ここ数日で、何年も持ち続けてきたそれがすっと消えました。忘れたのではなく、消えることに抗うのをやめたと言う感じです。
原因を考えてみるに、このところ自分と同世代の人の急な病死が周りで相次いだせいで、自己防衛の本能が活性化したためだと思われます。
霧が晴れた眺めが新しくも寂しいような、妙な感じです。
つまみ Post author
Janeさん
カレー記念日は特に、あとで思い出すとか記憶で再現するものではなく、その瞬間の、もしかしたら5分後にはそれこそ「消えてしまう」気持ちを切り取る要素が大きいので、どこかに残しておかないと一瞬たりとも存在しなかった言葉になりがちですね。
私もよく投稿していますが、しょっちゅう「こんなこと、送ったっけ?」と思います。ほとんどそう、とも言えます。
それはそれでいい、と思ったりもするのですが。
コロナは本当に、それまでの世界を変えてしまいましたよね。
文化に関して、特にそう思います。
効率や経済や利便性とは必ずしも一致しないものにこそ宿るのが文化だったりするからこそ、いちばん「割を食った」気もします。
自己防衛本能が年々活性化してきたこと、私も自覚しています。
一度消えたように思っても、それは自分でどこかに仕舞っただけで、ということも多いかもしれません。
今は一度消えたことにすることが自分をラクにする、と思えば、とっとと消し(仕舞い)込んでいるんだと思います。