帰って来たゾロメ女の逆襲 場外乱闘編 連載図書館ゴロ合わせ小説 『博の愛した数式』 前編
「博の気力は80分しか持たない。まだ子どもだから」と彼女は言った。
博は10才。
私の職業は家政婦で、週に6日、博の家で働いている。
博の母、つまり私の雇い主の加代さんは、シングルマザーで博を育てている。
都内の東の外れで小児科クリニックを開業している加代さんは手ごわい。
容姿と白衣のせいで仕事中は天使のようだが、家の中では別人。
どちらかというと悪魔か魔女だ。
雇い主のたっての希望で、私はその子息を呼び捨てにしている。
加代さん曰く
「家庭内での地位を理解させたいの。
それに、男性保育士のいる保育園に子どもを預けてる父親は、
預ける前より子どもとコミュニケーションをとるようになるっていうじゃない?
父性が外部の刺激で活性化されるんだとしたら、
私も、自分の子が呼び捨てにされたら微妙にムッとして
独占欲みたいなのが湧くんじゃないかと期待してるんだ」
こんなことはふつう思っていても人には言わない。
やっぱり加代さんは手ごわい・・というか変わっている。
加代さんは息子に対して、どちらかという‥までもなく放任主義だが、
気まぐれなので時折、突発的な行動をとる。
私の休み明けのその日も、博がうんざりした顔で報告してきた。
「昨日は大変だったんだよ。
お昼ごはんを食べたら急に『出かけるよ』って言われて、
どこに行くのって聞いたら
『決めてない。たまにはふつうの親子をやっとかないと忘れるから。
なにごとも思い出づくり』だって。
親が子どもにそういうことを言う?」
言わないと思う。
加代さんは先に立ってずんずん歩いたらしいが、
本当に目的地などないようだった。
彼女には以前から、考えごとがあるとひたすら歩く癖があるが、
心の準備もなく付き合わされる方はたまらない。
ふたりは1時間以上かけて、区営の展望タワーに到着してそこに上った。
「『高くて気持ちいい』って言ったら、
おかあさんが『ここは夜景がキレイなんだよね』って。
だから『じゃあ、夜にまた来ようよ』って答えたの。
そしたらなんて言ったと思う?
『子どもと来てもつまんない』だって!」
その後、ふたりは展望タワーの近くのカラオケに行ったらしいが、
加代さんは疲れたと言ってソファに横たわり
そのまま熟睡してしまったそうだ。
2時間も。
かわいそうな博。
「帰りはもう暗くなってた。
おかあさんは寝たら元気になってて、帰りも歩くって、
行くときとは違う細い道を通ったの。
誰も通らないような寂しい道。・・・でね」
博は心なしか目を輝かせた。
「オバケでも出た?」
「ちがう。道で着替えてるオジサンがいたんだよ」
私は「なんだ」という気持ちが顔に出ないように気をつけながら
「大人にはいろんな事情があるからね。公園や川原に住んでる人もいるし」
と言った。
それに対して博は、とっておきの情報を明かすように、
いくぶん声を落として上目づかいで言った。
「でもそのオジサンは女の人の洋服に着替えてるとこだったんだよ。
スカートを履こうとしてた。
お化粧もしてない、顔はふつうのオジサンなのにさ」
オジサンは堂々、というより淡々と着替えていたらしい。
ふたりに見られても「スカートを履くところですけど、なにか?」
という感じで。
博はちょっと怖くなって思わず母親の腕をぐっと掴んだ。
加代さんは、といえば、
まるで路上でTシャツかなにかを着替えている人を見たかのように、
驚きもせず、かといって露骨に目を逸らしたりもせず、
ちょっとだけオジサンに目を留め、そのまますれ違った。
そしてオジサンからずいぶん離れたところまで来ると急に立ち止まり、
めずらしく真剣な口調で博にこう言ったという。
「これは命令なんだけど、さっきみたいに、
ちょっとふしぎな人を見たり、わからないことや怖いことに出くわしても、
すぐに気持ち悪がったり『ありえない』と決めつけないで欲しいの。
必ず一度は、この人はどうしてこんなことをしてるんだろう、
なんでこうなるんだろうと考えること。
いい?」
「命令・・なの?それ」
「そう、命令。
心を閉じたり怖がったらそこでおしまいだし、
それに関してイヤな思い出しか残らない。
もしかしたらすごくおもしろい理由があるかもしれないのに、
それってもったいないじゃん。
どうせなら、いろんな理由を想像した方が、
将来、思い出をやるとき楽しいでしょ?」
「ふ~ん。‥じゃあさ、おかあさんはさっきのオジサンは
どうしてあんなことをしてたんだと思う?」
博の問いに、加代さんは即答した。
「あのオジサンんちはウチと逆で、お母さんがいないの。
だから子どもの誕生日にお母さんをやってあげることにした。
サプライズの準備中だった」
「げっ!子どもは全然うれしくないと思う」
「じゃ、こういうのはどう?
・・実はそのサプライズは今日のことじゃなくて過去の話なの。
前にもオジサンは着替えを他人に見られた。カップルに。
そのカップルも博ぐらい驚いただろうね。
ところがしばらくしてカップルは別れちゃった。
でもカップルの女の人の方は彼が忘れられなかった。
だから時々、思い出の小道にひとりでやって来るようになった。
オジサンはそれを知って、彼女のために
〈思い出の着替え〉をしてあげてるの。
あのときのことは夢じゃなかったんだよって彼女に証明するために」
「‥なんだよそれ。意味が全然わかんないよ」
10才の子どもにそんな斬新な解釈を披露するなんて、
やっぱり加代さんは変わってる。
私は博に「大変だったね」と言って同情したが、同時に、加代さんが昨日
〈思い出〉という言葉を連発していたらしいことが引っ掛かった。
(続く)
※後編は9/23(月)更新です。
文・月亭つまみ
イラスト・みーる(Special Thanks)
こんなブログをしています。正体不明な女二人のブログ。 お昼休みなぞにのぞいてみてください♪→→「チチカカ湖でひと泳ぎ」