◆◇やっかみかもしれませんが…◆◇ 第84回 8年ぶりにまた書く
「子を持つ親として」的な表現に物申したくなったものの、なんだか前にも同じようなことを思ったなあと斜め上を見る。試しに過去記事を検索してみたら2018年にこんなことを書いていた。ちょっと長いけれどここに貼ってみる。
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子どもが巻き込まれた事件、事故の直後にテレビで目にする街の声などの中に「子を持つ親として許せない」という言葉がありますが、聞くたびに、「子を持たない、親じゃない人間でも許せないよ」と言いたくなります。現実にテレビに向かって言ってるかも。
私は、子育てが、親と学校だけじゃなく、もうちょっと、そのへんの通りすがりの人間も含めた、社会全体で担う意識にならないものかと思っているのですが、正直言って、なかなかそういう方向にならない理由の一端は、まさに「子を持つ親として…」的発言を無意識にする、子を持つことと持たないことを知らず知らずのうちに断絶させているメンタリティの人、にもあるような気もするのですが、おせっかいオバサンの屁理屈にしか聞こえないのでしょうか。
確かに、実際に子どもを持たないとわからないことって、ゴマンとあると思います。例として適切かどうかわかりませんが、4年前から猫を飼って、それまで想像していた「猫と暮らすこと」と実際の日常はいろいろ違っていて、それは、生活のあらゆる局面の深さ(深いという意味ではなく)とか角度(鋭いという意味でもなく)を変えるものだと感じ入っているのは事実です。
でもそれを「猫を飼ったことがない人にはわからない」とか「自分は猫を愛する人間だから」みたいなことで括ってしまうと、もうそれで、いろいろ終わってしまう気がする。その「いろいろ」は存外に、「他者との気持ちの行き来にとって重要なこと」だったりするんじゃないでしょうかね。
ま、ニュースなどで流される「街の声」は、テレビや新聞にとって都合のいい意見なわけで、「子を持つ親として…」を採用するマスコミにこそ問題があるのかもしれませんが。
でも、「子を持つ親…」と言われちゃうと、そのへんの通りすがりの人間としては、目の前でシャッターを下ろされたような気持ちになっちゃうのですよね。
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定期的にこの手の表現に対する違和感を表明したい体質なのかもしれない。ちなみに、8年経った現在も同じ気持ちである。ってことは、ずっとこう思い続けているのだろう。でも読み返すまで、書いた記憶があいまいだった。再読してあらためて、そうそう!と膝を打つという、とんだ一人芝居を演じている。「子を持つ親として」に対する違和感は変わらないのに、書いた事実を覚えていないのはなぜだろう。

スポーツに打ち込む高校生とその母にスポットライトを当てて話題になった小説がある。タイトルまでは書かないのが自分でも姑息だが、この作品の広告に採用された書評家や作家や出版関係者‥いわゆるプロたちの惹句が
「母親に感謝の気持ちが湧いてきた」
「母として、嗚咽を堪えた瞬間が幾度あったことか!」
「全母親が落涙必至!!」
と、母まみれなのは芸がないと思う。タイトルに「母」が入るし、確かに母にスポットライトを当てた作品だとは思うが、推し文句セレクトの幅が狭すぎる。これじゃまるでお涙頂戴の薄っぺらな物語みたいじゃないか。読んだが、実際はそんなことはなく、もっと掬い取る箇所はたくさんある小説だった‥気がする。でも、ほら、こんなふうに、惹句の一方向の圧が突出していると読後感も影響を受けて、他の箇所の記憶が潰されるのだ。

本の広告ってそれが正なのだろうか。目に飛び込ませ、手に取ってもらう頻度を上げるためには一方向をパワーワードで推すが王道なのか。読んで、感動して、その肝を強力に推したくなる気持ちはわかるが、感じ方はそれぞれだし自由であることをプロの読み手(なの?)にこそ提示してほしい。要するに、どんな広告にも受け手の気持ちの場所、余白がほしいと思うのだ。だから私は、読む前に感動を強要されているような言葉はイヤだ。特に、全母親が落涙必至とまで言われると、母親じゃない自分は涙する資格がないのかと思ってしまう。
いや、実際は思わない(なんだよ)。そもそも宣伝文句やPOP(自分も書いている)なんて、たいていは知ったこっちゃない。と、ちゃぶ台ををひっくり返してみる。ただ、いくばくかの疎外感を覚えたのは事実だ。無神経だと思った。売り手や推す側の「非母親が抱くモヤモヤした感情などはなっから念頭に置かない、想像する必要もない」というジャッジは、無意識かもしれないが、いや、無意識ならなおのこと全体主義みたいで怖いとも思う。

結婚したのは昭和後期だ。平成になってすぐの頃に母親になりそびれ、そのまま今日に至るが、当時は、結婚していると表明するとこどもの有無、なんならその理由まで聞かれたものだった。たいてい、テキトーに躱していたが、こどもを亡くした2年後ぐらいに、いかにも無神経な会社の上司に「こども作らないの?」と気安く聞かれたとき、間髪入れずに「死にました」と答えてみた。新機軸を試してみたのだ。向こうはしばし絶句して、まさかそんな答えが返ってくるとは思わなかったと、傷ついたような顔をして形だけの詫びを口にした。その後、二度と、彼だけでなく彼周辺からその手の質問をされることはなかった。
そうか、こうすれば広範囲を蹴散らせるのかと思ったが、二度と使わなかった。やった効果はあったものの、それ以上に後味が悪かったからだ。そしてその後も、新しい人間関係で同じようなことを聞かれるたび、しばらくは自分のどこかが一瞬痛むような感覚を覚えながら躱し続けた。そうこうしているうちに何も感じなくなり、聞かれることもなくなった。聞かれる年齢ではなくなったからだろう。

多様性を謳うご時世である現在は、未婚や子のいないひとは、それを意味もなく確認されたり、そうである理由を聞かれたりしなくなっただろう‥と思いたいところだが、もしかしたらあまり変わっていないのかもしれない。
そう悲観してしまうのは、上述の「子を持つ親として」や「全母が落涙必至」が現在も大手を振って流通しているからだ。それとこれとは違うだろう、被害者意識が強すぎ、と言われるかもしれないが、はたしてそうだろうか。
多様性多様性と言われるたびに、どこかで「うさんくせえな」と思う気持ちがぬぐえないのは「他者を尊重し気遣いを含めた想像力を発動する労を厭い、単なる思考停止でわかったようなことを言い合う」場面や人に出くわすことがわりと多いからだ。かくいう自分も例外ではない。つい昔の価値観で物事を見そうになり、あわてて脳内修正する自分がよく出現するが、そこにあるのは、尊重や理解や想像力以前に、「今はアウト」という判で押したような思考停止的思考(わかりづらくてスミマセン)だったりする。なにがアウトだ、と自分のどこかが思う。思うが、「アウトじゃないこと」というスタンスを最優先して発言や立ち位置を決める自分はまだどこかにいる。
「まだどこかにいる」と書くことで、近い将来、「もうどこにもいない」を期待したいのだが、どうだろう。誰に聞いているのだ?自分で決めろ、ですね。
by月亭つまみ

















































































