人を殺すということ。
子どもの頃、隣の家に住んでいたおじさんはかなりワイルドな人であった。というか、家族揃ってワイルドであった。
息子さんは僕が小学生の頃にすでに成人していて、働き始めて一週間で行方知れずになった。行方知れずになってしばらくの間は、おじさんもおばさんも泣いて暮らしていたのだが、3カ月ほどしたある日、隣の家から互いの家の薄い壁を越えて、おばさんの叫び声が聞こえてきた。
僕の家は、父と母と弟と四人暮らしだったのだが、その叫び声が聞こえてきた時には晩ご飯を食べていた。家族揃って、食べていたのだから、土曜日か日曜日かだったような気がする。
父親がつっかけを履いて、隣へと走って行った。母親が止めるのも聞かずに、僕がその後を追った。昔のことだから、玄関に鍵などかかっていない。親父はガラスの引き戸をガラガラと勝手に開けて隣の家に飛び込んだ。何度か、おばさんにおやつをもらうために上がり込んだことのある隣の家は、僕にとってはなかなか居心地のいい空間だった。
しかし、その日飛び込んだ隣の家は、そこらじゅうのものが倒れたり、壊れたりしていて、見るも無惨な状況になっていた。そこで見た光景に僕は唖然とした。
出て行ったはずの息子さんが台所の板の間に、上半身裸で四つん這いになっていたのである。その背中をおばさんが泣きながらタオルで必死にこすっている。
「ほら、見てやってください。見てやってください。こんなしょうもない墨いれて!」
僕の父も呆然と突っ立ったまま、その光景を見ていた。
おばさんが何度も何度もタオルでこするので、息子さんの背中は真っ赤になっているのだが、その真っ赤な皮膚にうっすらと下絵のような魚の刺青が見えた。
「まだ、消えるんとちゃうか?」
父はそう言うのだが、隣の家のおじさんは、
「もう、墨が入ってしもてるさかいなあ、そう簡単には消えんやろ」
そう言って、正座をして息子の背中を眺めている。
それからしばらくの間、父も僕も、隣の家のおじさんも、一言も口を聞かずに、四つん這いの息子さんと背中をこすり続けるおばさんを眺めていた。
どのくらい、時間が経ったのだろう。僕が「これ以上、こすり続けると、背中から血が流れるんとちゃうか」と思った頃に、父は僕に「先に、帰っとけ」と小さく怒鳴った。
父は長い時間帰ってこなかった。途中で母が隣へ行き、父も母も帰ってこなかったので、僕と弟は先に寝てしまった。
何日かして、「背中に刺青入れるて、ヤクザやんなあ」と父に言うと、父は「そうや、ヤクザや」と答えた。
「ヤクザはなんであかんの? 刺青入れるからあかんの}
僕がそう聞くと、父はしばらく考えてから答えてくれた。
「そうやなあ。刺青入れると強くなった気がするやろ」
「うん」
「強くなった気がすると、人にえらそうにするやろ」
「うん」
「えらそうにすると、人から恨まれる。恨まれると人を怖がるようになる」
「うん」
「そしたら、強がってるもんほど、いつか人を傷つけたり殺したりしてしまうかもしれん」
「……」
「そやから、ヤクザはこわいんちゃうかなあ」
うろ覚えだけれど、父はそのようなことを言った。
最近、人を殺してしまうような少年事件のニュースが多い。そんなニュースを聞く度に、あの時の隣の家のことを思い出す。そして、父が言った「強がってるもんほど、いつか人を傷つけたり殺したりしてしまうかもしれん」という言葉を思い出す。
罪を犯してしまう少年たちがとてつもなく深い寂しさのようなものを抱えているのだろうと思っているのだけれど、そんな寂しさは実はみんなが持っている。ただ、それが鎌首をもたげた時に、竹尺を持って、すねを叩きつけてくれる人がいなければ、寂しいという気持ちは次第に、寂しいという暗い形として具現化してしまうような気がする。
まだ、寂しいという漠然とした、カタチになる前の「気持ち」の間に、叱りつけ、抱きしめてくれる人がそばにいるかどうか。そこが分かれ目になるのだろうか。
だとしたら、大人も子どもも関係がない。隣人が、我が子が、暗い闇を抱えてしまわないように、という配慮よりもむしろ、人は誰もが寂しい暗い闇をどこかに抱えているのだ、という理解が必要なのではないかと思えてくる。
ただ生まれて死ぬだけの動物ではなく、「なぜ、生きているのだろう」と考えられる知恵を身につけた瞬間から、人は寂しさを引きずりながら生きているのだから。
植松眞人(うえまつまさと) 1962年生まれ。A型さそり座。 兵庫県生まれ。映画の専門学校を出て、なぜかコピーライターに。 現在、オフィス★イサナのクリエイティブディレクター、東京・大阪のビジュアルアーツ専門学校で非常勤講師。ヨメと娘と息子と猫のマロンと東京神楽坂で暮らしてます。
★これまでの植松さんの記事は、こちらからどうぞ。
パプリカ
植松さま
初コメントです。
涙あふれて滂沱です。
お父様の言葉と
『そしたら、強がってるもんほど、いつか人を傷つけたり殺したりしてしまうかもしれん』
植松さんの言葉
『まだ、寂しいという漠然とした、カタチになる前の「気持ち」の間に、
叱りつけ、抱きしめてくれる人がそばにいるかどうか。そこが分かれ目になるのだろうか。』
『ただ生まれて死ぬだけの動物ではなく、「なぜ、生きているのだろう」
と考えられる知恵を身につけた瞬間から、人は寂しさを引きずりながら生きているのだから。』
植松さんのお父様の言葉が
masato 少年に響いて、
大人植松の言葉となり、
(いつも大爆笑させてもらっている)私を
黙らせ、時間を静止させ、涙をあふれさせる。
聖書の『汝、殺すなかれ』
何故?を理解したければ、
つっかけをはいて、お隣にかけこんだ父上のように
『汝の隣人を愛せよ』から始まるのかもしれません。
uematsu Post author
パプリカさん、はじめまして。
子供の頃に見聞きした風景、
というのは後々効いてきますね。
でも、それは取り繕うことのできない、
本質みたいなものが滲むからこそ、
響いてくるような気がします。
なので、子供と接するときも、
誤解を恐れず、多少理不尽でも、
まっすぐに向き合おうと思います。
周囲の人たちに対しても。
時々、しんどいこともありますけど(笑)
カリーナ
わたしも「つっかけを履いて、隣へと走って行った」というところが好きです。それから、「これ以上、こすり続けると、背中から血が流れるんとちゃうか」と思った頃・・・というところも好き。ここは、ちょっと笑ってしまうんです。笑ってしまったあと親御さんが、こすってこすって消そうとしている必死さが目に浮かんで「そうだよね、そうだよね、大事な大事な息子の背中だもん。さすって落としたいよね」って思う。
大人って若者に伝えようとするために滑稽であっていいんですね。わたし、娘に対して植松さんのお父さんのように自分の言葉で説くこと、できたかなあ。
私の小学校のころから今までつきあっている友人のお父さんは、いわゆる極道の人で、家に遊びに行くとあちこちに入れ墨のある人が出入りしていました。眉毛とかにもあったなあ。子どものころにいろいろな人(どちらかというとはみ出している人)を見ることができて、本当によかったと思います。
カミュエラ
パプリカさんと同じく、読みながら泣いてしまいました。
年齢を重ねると、老若男女ほんとにすべての人が何がしか心に闇を抱えてることがはっきりとわかってきますよね。わかってくると、とにかく人に優しくしなくちゃいけないんだと本気で思うようになります。恥かしながら本気でそう思うようになったのは最近のことです。
一番近くにいる夫や子どもが抱えている闇を思うと、若いころのように何かあればすぐに「離婚してやる!」ってなったり、子供の話しを半分聞いてがーーーっと怒ったり、そういうことも出来なくなります。(笑)
カリーナさんの言葉「大人って若者に伝えようとするために滑稽であっていい」、ほんとにそう思います。
自分も含めいつの頃からか’滑稽’を避けて生きる大人が増えてきてしまったんですね・・・・・
大事な人たちに(余力があれが他人にも)滑稽な姿をさらして、気持ちを伝えていかなければと思います。
uematsu Post author
カリーナさん
なんだか、世の中の出来事は、
他人から見ると、笑ってしまほど不器用で無様に見えますよね。
だけど、本人は必死だというところがたまらなく愛おしい。
uematsu Post author
カミュエラさん
僕は最近思うのですが、学校の先生でも親でも、
子供たちの前で壁になってあげられる人や、
悪役になってあげられる人はすごいなあ、と思います。
そして、自分もそうでありたいと思います。
学校で学生を相手にしていても、学生からよく思われたい、
学生と仲良くしたい、という先生がとても多い。
だけど、そういう先生に限って、自分のことしか考えていなかったりします。
ちゃんと向き合うということは、仲良くすることとは違うと思うんです。
う〜ん、なんか難しいですけど(笑)