斜陽を聴きながら。
女優の奈良岡朋子が朗読する太宰治の『斜陽』を聴きながら歩く。千駄木の自宅から作中に登場する片町あたりを通り、白山を抜け飯田橋方面へと歩く。
登場人物のお母様と和子さんが駒込の片町から、軽井沢へと引っ越していく場面を聴いて心臓を鷲掴みされたような気がして、すこし歩く速度を落とす。長年住み慣れた神楽坂から練馬の上石神井へ引っ越した二年ほど前のことを思い出した。
縁もゆかりもない土地に住まなければならないということは、これまでに編まれた流れのようなものを断ち切ることに等しく、上石神井になんの恨みもないのにも関わらず、私は上石神井という土地を憎んでさえいた。好きになろうと努力したことが、余計に事態を悪化させている気配もあったのだが、正直、自分でもどうしようもなく暗い気持ちで強制労働者のように上石神井と神楽坂の事務所を行き来する毎日だった。
唯一、上石神井の良き思い出は駅前近くにあった「藤ノ木」というベーカリーショップの存在である。「藤ノ木」は四十絡みの女店主と若いアルバイトばかりで営業しているパン屋で、バケットのようなパンも総菜パンも菓子パンも、どれを食べてもうまかった。誰の実家でもない、そのくせ誰かの実家のような辛気くささと諦念を兼ね備えたような上石神井にあって、「藤ノ木」のパンのおいしさは、まさに心の安らぎと言ってもいいほどのものだった。
年の瀬に引っ越しをして、大雪が降った。降った雪の上に自分たちの荷物を運んできてくれたトラックの轍が残っているのを見るだけでなぜだか微かに涙が出た。『斜陽』のなかで、お母様と和子さんが東京の家を出て、軽井沢の別荘を借りて住み始め、和子さんの粗相で小火騒ぎを出してしまうまでの場面展開は、あの上石神井に暮らしたたった一年ほどのことを鮮明に思い出させてくれる。
これまでにも、いろんな場所で暮らしたことがあるのだが、やはり人がある土地で暮らすためには理由が必要なのではないかと思わされる。
実家がある。そこで生まれた。大好きな店がある。あの景色が好きだ。好きなあの人がいる……。
なんだってかまわない。なんだってかまわないのだが、住みたかった場所に適当な物件がなく流れ流れてたどり着いたりするといけない。やはり、そこは自分の土地には決してなることのない縁遠い土地になってしまうようである。どうやら、私と上石神井はファーストコンタクトが悪かった。その理由はと考えても、それは私の心持ちと上石神井との相性だろう、としか答えようがない。
奈良岡朋子の声で朗読される『斜陽』は、どこまでも淡々としていて、同時に陰っていく日の光の切なさを伝えながら物語を紡いでいく。
上石神井という土地とは縁遠い私だったが、しかし、この町に古くから親しんでいる人もいる。次に上石神井を訪れる時には、駅前にある「藤ノ木」に行き、この町でおいしいパンを焼くという楽しさに思いを馳せながら、あの町をもう一度歩いてみようと思う。
奈良岡朋子の声で運ばれてくる『斜陽』の物語は私にそんな決意をさせるのだった。
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植松眞人(うえまつまさと) 1962年生まれ。A型さそり座。 兵庫県生まれ。映画の専門学校を出て、なぜかコピーライターに。 現在、神楽坂にあるオフィス★イサナのクリエイティブディレクター、東京・大阪のビジュアルアーツ専門学校で非常勤講師。ヨメと娘と息子と猫のマロンと東京の千駄木で暮らしてます。
★これまでの植松さんの記事は、こちらからどうぞ。
okosama
uematsuさん、こんばんは
オーディオブックを聴きながら散歩(ウォーキング?)をし、脳裏に浮かぶあの場所、胸中をよぎるあの時間を味わう…大人ならではの素敵なひとり時間ですね。
私もやってみよう。
何をきっかけに、なにを思い出すんだろう。
uematsu Post author
okosamaさん
オーディオブックを読みながら散歩をする、通勤をする、というのはなかなかの味わいです。
最近、その良さに気づきました。
ぜひ、お試しください。
アマゾンの始めたサービスもあり、オーディオブックはこれからの潮流になるかもしれませんね。
okosama
そうですか。良いですか。
旅行のお供にも良さそうです。
「坊ちゃん」を聴きながら、松山を行く。アニメのノベライズ版を聴きながら聖地巡礼。
もうやっている人もおられるでしょうね。
uematsu Post author
okosamaさん
「ドグラ・マグラ」を聞きながら巨大迷路をさ迷う。
「泥棒日記」を聞きながら新宿二丁目を歩く。
いろんなシチュエーションを考えてしまいます。
昔、ラジオで聞いていた朗読を外で聞くだけで随分イメージも、そして集中力も違ってきますね。
okosama
uematsuさん
東京はネタがたくさん有るのでしょうね。一冊で何倍も楽しめますね。
イベントができそうです。既に開催されているのかも。
同じ場所で同じ本を聴くツアー&読書会。
同じ場所で違う本を聴くツアー&ビブリオバトル。
読書会もビブリオバトルも参加したことはないですが(笑)。
れこ
こんにちは。
春に縁もゆかりもない土地への引越しを控えているため、
今回の文章はとても身にしみました。
これまで根を張っていた場所から
引っこ抜かれて移植されるのか…という気持ちがあり、
転居後の生活をなかなか思い描けません。
でも、「この土地を好きになろうとする努力」というのは
あまりしなくてもいいのかも、と
植松さんの文を読んで思えるようになりました。
新しい街に美味しいパン屋や喫茶店があるといいなあ。
「斜陽」も探してみますね。
uematsu Post author
okosamaさん
そうイベントは面白そうですね。
僕はたまに、芥川の作品の朗読を聴きつつ、青空文庫でテキストを追ったりしています。
意外な発見があって面白いです。
アメちゃん
「斜陽」といえば
お母様のスープの飲み方をいつも思い出します。
たしか、、「ひらりひらり」だったかなぁ?
なんだかとても、その優雅な雰囲気がいいな〜と思って
しばらく私も、そのスープの飲み方をまねていました。
ところで、私。
大学で、「ドグラマグラ」を撮った松本俊夫監督の講義を受けたことがあります!
でもですねぇ。
講義中、おしゃべりをしてて
「そこ。聞かないんだったら出てって!」
と冷たく注意されたという、とーーっても苦い思い出でもあります、、。
今思い出しても、はずかしく後悔しています。
くるりん
こんにちは。くるりんと申します。
今までに9回の引越しを経験していますので、今回の記事を読んで感情がゆらゆらしてしまい…思わずしんみりと人生を振り返ってしまいました。
子供時代は親の都合で、その後は進学で、そして結婚後は夫の転勤で…。
あれこれ思い悩む余裕もなく移動を繰り返してきましたが、子供たちにもたくさん負担を強いてきたなぁ…と今回新たに反省もしました。その時その時でベストな選択をしたつもりでも、振り返ると苦い思いもあるものですね。
ちなみに…今年迎える契約の期日でまた引越しだと思っていたのですが、このまま更新出来ることになり…それがわかった時、まったく意図しなかった涙が出ました。
いつも一から地域に溶け込もうと努めて、どうにか人間関係も出来た頃に引越し…の繰り返しだったのです。口にしたことも意識したこともなかったのですが、心の奥底では嫌だったし疲れていたのだと自覚しました。夫にも初めて伝えました。
帰らなきゃ、と思いながら、でもどこへ…?と迷子のように彷徨う夢を何度も見ていたのに、自分の気持ちに気づいていなかったんです。気づいたら崩れてしまいそうだったからかもしれません。
>れこさま
横から失礼します。
今の不安ではっきりしない状態のお気持ち、お察しします。
昔と違って繋がり続ける手段はあるとは言っても、引っこ抜かれる、というのはまさにその通りだと思うので。
ただ、例えばここオバフォーのように…どこに住んでも変わらずに関わり続けられる場を持つことはとても心の支えになると思いますので、どんどん活用して吐き出して楽になってくださいね(<部外者の私が言うことではないかもしれませんが)。
ひとごとと思えず…余計なコメントですがどうか気持ちが届きますように。
数多い土地との思い出や繋がりが、これからの人生を豊かにしてくれるよう…私もオーディオブック&散歩、で住んできた街を訪れるという計画を老後までゆっくり進めてみたいと思います(^-^)
uematsu Post author
アメちゃんさん
僕も松本さんの講義を受けたことがあります。
真面目な方なので、厳しい言い方になっちゃったんでしょうね。
斜陽、改めて面白い小説だと思いました
uematsu Post author
れこさん
もし、不安にしたならすみません。
でも、僕の場合は、満員電車という洗礼も大きかった気がします(泣)。
ただ、家族と一緒にあるいた石神井公園はいい思い出だし、上石神井に住んだことで、吉祥寺の魅力に触れました
uematsu Post author
くるりんさん
僕も引越しが多いというか、移動の多い人生なので、ふいにしんみりしてしまうことがあります。
なんだか、どこにいても根無し草だなあ、と思ったり。
でも、だからこそ、見えてくるものもありますね。
れこ
くるりんさん
私にもコメント、ありがとうございます。
迷子の夢…。私も子どもの頃何度か引越しを経験したので
胸にキュッときました。涙の意味も、わかる気がします。
今回は、主人の仕事都合による急な引越しであることと、
諸々の関係で第一希望だった町からは離れてしまったこと等もあり、
よーく探して決めた物件ではあったけれど、
「本当にここに根を下ろせるのか?」という不安がありました。
今は新居の掃除やら工事やら諸々の雑事に追われつつも、
引越し先の環境を調べる余裕も出てきました。
オバフォーの様な、どこに住んでも繋がっていられる場所があるというのは
本当に心の支えになりますね。
かつて住んできた街を再訪していくのも素敵な計画ですね。
私もいつかしてみたいです。