【エピソード21】文化釜の時代
さてさて、聞いた話を形に残すことを仕事にしている「有限会社シリトリア」(→★)。
普通の人の、普通だけど、みんなに知ってほしいエピソードをご紹介していきます。
【エピソード21】
「炊きたてのご飯も好きだけど、冷えちゃったご飯も私、好きなのよね」と涼子さんは言います。涼子さんは今年還暦。「冷えたご飯」で思い出すのは、小さいころ家にあった『文化釜』のことだそうです。
・電化製品のない時代
昭和30年代前半は、まだ電化製品はどこの家でもオールラウンドにそろっている時代ではありませんでした。冷蔵庫も、涼子さんの最初の記憶は、氷屋さんで買ってきた氷を入れて冷やす木製の冷蔵庫。
2歳のころでしょうか。一人っ子の涼子さんがいつになく一人で大人しく座ってるな、と思って母親がのぞき込むと、冷蔵庫の下にたまった溶けた氷水を、ガーゼに沁みさせてはチューチューなめていた。そんな夏のエピソードを、後年、母親が話してくれたそうです。
掃除はホウキ、洗濯は大きなタライです。タライは夏になると格好の行水道具になったものです。
・文化釜の豆ご飯
で、文化釜。涼子さんの家は両親と3人家族でしたから、お釜はこじんまりした大きさのものでした。炊き上がったあと、お米のデンブンの薄皮がフタの周りに浮き上がっていたり、フタの大きな黒いツマミが、熱で小さくひび割れていたり。お釜一つでもビジュアルとして涼子さんの記憶の中に残っているものがたくさんあるのだとか。
文化釜(「ありぎりすの徒然日記」より)
幼稚園のころでしたか、ある日、仲良くしている近所の男の子が家に遊びに来ていたときのこと。お母さんがちょっと買い物に出てくると言い、短い時間、二人で留守番をすることになりました。おやつは食べたけど、まだお腹が空いてるねーと二人。台所に行くと、ガス代の上に夕べ使ったお釜がありました。踏み台に乗ってフタを開けると、中には豆ごはんが。前夜は父親の帰りが遅く、母親と涼子さんが食べただけで、豆ごはんはたくさん残っています。
白いご飯に、少し色のくすんだエンドウ豆。でんぷんの薄い膜の釜の内側で、それはそれはおいしそうです。「食べようか」「うん」
一人は踏み台、一人は居間から椅子を運び込み、友達と二人、お茶碗としゃもじを持ち出し、お釜の前でよそってはそのままパクパク。ほどよい塩気のご飯と、一日経って甘味の増したエンドウ豆の柔らかさ。ふた口、み口でやめるつもりが二人とも止まらなくなってしまいました。
豆ごはん(all about 暮らしサイトより)
ほどなく帰宅した母親が、狭い台所で台にのぼってお釜に首を突っ込んでいる二人を見てびっくり。今夜、蒸し器で温めなおして(もちろん電子レンジはない時代ですから)夕食に食べようと思っていた豆ごはんは、お釜の底に数粒を残すのみ。あまりの出来事に、怒るのを忘れて大笑いをしてしまったお母さん。「あのとき思いっきり怒られてたら、私はその後トラウマで冷ごはんが嫌いになってたかも」と涼子さんは笑いながら振り返ります。
・電化製品がやってくる
やがて、おひつに移さなくてもいい電子ジャーができ、そこから保温機能付きの電気炊飯器が登場するまでにはさほど時間はかかりませんでした。今の子どもは、家にある電気製品といえば、〝買い替える〟もの。でも涼子さんの小さいころは違いました。
「今まで家になかったものがやってくる。電気釜も冷蔵庫も掃除機も。あのワクワク感、今も全部覚えています」
電化製品が家の風景を変えていった、そんない懐かしい時代のお話でした。
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ミカス
これ、文化鍋っていうんですね。
我が家では「カタカタ鍋」と呼んでました。沸いてくると蓋がカタカタと音を立てて揺れるから。
蓋のふちから上がってきたおネバ(と母は呼んでました)が乾いて薄皮になるんですよね。
今はほとんど出番もなく、流し下収納の奥で眠っています。
まゆぽ Post author
ミカス家語、楽しい〜!
「おネバ」なんて、可愛くて、頬ずりしたくなります。
火傷するってば。
文化鍋、わたしんちでも使っていました。
でも、4個下の友だちは知らなかった。
そのあたりに文化釜構造線があって分断されているようです。
コメント、うれしかったです。ありがとう!