◆◇やっかみかもしれませんが…◆◇ 第76回 もうひとりの兄(超!長いです)
2025年3月25日、かかってくるはずの電話がなかった。こちらからかけても留守電になり、一夜明けて、また留守電になったとき、ああ、絶対なんかあった、下手すりゃ生きてないかも、と思った。
亡くなった長兄のことは今まで幾度となくこの場所に書いてきた。長兄Kは2006年、53歳でこの世を去った。トシの離れた兄だと思っていたのに、今の自分は亡くなったときのKより10歳以上年嵩になっている。生者が思い出す限り死者は存在し続けるけれど、時間は進まないのだというあたりまえのことにしみじみする。
長兄長兄と書いてきたことで明らかなように、私にはもうひとり兄がいる。次兄Yだ。Yとは4歳違いだが、コロナ禍前から会っていないので、Yが現在の私の年齢をどんなふうに通過し、今をどう生きているかの情報はほぼない。体型や体質は父親系だと思われるので晩年の父同様、髪は薄くなっていないことが予想されるが(母方は完全に薄くなる家系)私にはどうでもいいことだ。
勉強ができて自立心旺盛だったKと違い、Yは成績も運動神経もふつうで、努力が嫌いで気が弱いお調子者だった。そんなYは高校でつまずいた。一度入った福島市内の商業高校を「商業科は合わない」と辞め、翌年入り直した普通科を今度は「遠くて通うのがつらい」と行かなくなった。結局次の年に私立の男子高に入り直した。両親が離婚したのはYの高校問題が表面上は落ち着いた頃のことだ。
1976年春に一家はちりぢりとなり、長兄Kは大学を卒業して兵庫で鉱山技師になり、母親と私は会津の母親の実家に引っ越すことになった。Yは三つめの高校の途中ということもあり、福島市に住む父親の弟の家から学校に通うことになった。当時の私はYのことを情けない兄だと思っていてあまり話もしなかった。だからYがバラバラになった家族にどんな思いを抱いていたかは知らない。
高校を卒業したYは上京して新聞奨学生をしながら専門学校に通い始めたが、いつのまにか福島市に戻り、叔父の紹介の会社に入った。しかし長くは続かず、その後、北関東の自動車工場で数年働いたがここも辞めた。そして1980年代後半、母親を頼って会津の母の家の近くで暮らし始めた。
そこでもYは仕事をしたりしなかったりした。Yに冷たかった厳格な祖母も亡くなり、Yは堂々と母の作った食事を食べるようになった。その頃から会津にもコンビニが劇的に増えたことで祖母から母が引き継いだ雑貨屋の売り上げは減少の一途だったので、私は母親へいくばくかの仕送りをするようになったが、その一部がYの生活費になっていることは明らかだった。私はそれが許せなかった。
どうしていいトシをした息子の面倒を見るのか、だから仕事が続かないのだと私は母を非難した。すると母は、高校生のYを自分が「見捨てた」ことにずっと罪悪感を抱いていると言った。私は「何年前の話だよ」と思い、そう口にもしたが、母は変わらなかった。そのくせ、母とYは顔を合わせると言い争いばかりしていた。私はとげとげしい関係のふたりのいる家に帰省するのが苦痛になり、帰っても1、2泊程度で東京に戻ることが多くなり夫の母が心配するほどだった。私はふたりから逃げていたのだった。
2000年、母の病が発覚し3か月闘病して逝った。私は、母の病の原因の一部は、Yとの生活のストレスだと思った。そして逃げた自分のせいだとも。もう少し母親の様子を頻繁に見ていれば気がついたことがあったかもしれないと思った。でもそうしなかったのはYのせいだという気持ちもあった。
しばらくYは、会津に留まりコンビニなどのバイトをして独り暮らしをしていた。近所に、母がお世話になった大正生まれの母の従姉のおばさんが一人暮らしをしていた。おばさんは元ナースで、面倒見が良くて、ずいぶん前に夫を亡くしたこととこどもがいないこともあってか、生前の母に対して同様、Yにも親切だった。私がおばさんに電話したときも「Yちゃんは困ったもんだけど優しいところもあるよね」と言っていた。がしばらくして、突然おばさんは弟一家と同居することになった。高齢だというのが表向きの理由だったが、おばさんの親戚がYを警戒したのかもしれない。考えてみるとYはおばさんの甥ですらない。
2005年、父親と暮らしていたKの病が発覚した。その看病という名目でYはふたりが暮らすさいたま市のマンションで同居することになった。
私は、Kの闘病のフォローはするが、父とYからは極力距離を置くことを心がけた。具体的に言うと、Kの入院先には頻繁に通ったが、マンションに行くことは避けた。案の定、Kの入院中、父親とYの関係は悪化した。Yは父親の恋人らしき人への嫌悪感を隠そうとしなかった。私に一度「なんなんだよあのひと!」と吐き捨てるように言ったが、私は当時はまだその人に会ったことがなかったので、こっちが聞きたいよ、と返した。
Kの一時退院中にマンションに行かざるを得ないときも、私は総菜の作り置きや掃除に徹し、父とYが何か言ってきても、それは私の知るところではないという態度を崩さなかった。父とYは、見栄っ張りで他人にはええかっこしいなので、私が他人のような距離感で接すると不快な顔をあまり向けてこないという驚くべき事実に気づいたのはこの頃だ。ふたりの横柄さは、主に身内に対する甘えから発せられる感情だった。父とYは共に大人の着ぐるみを着たこどもだった。似た者同士だった。
2006年にKが逝ってしまい、マンションに父とYが残った。しばらくしてYが大手自動車会社の寮の管理人の職を得た。奇跡的にも準社員だった。いちばん喜んだのは父で、自慢げに電話してきて、ついては入社の際に保証人がいるが自分は高齢で保証人になれないのでつまみのダンナに頼みたい、と言った。
電話を替わった夫は「今まで長い間、おかあさんやつまみさんがYさんのことで苦労してきたのを見てきたので保証人になる気はありません」と言って断った。父は「せっかくのYの就職の邪魔をするのか」と怒った。
数日後、すっかり怒りが冷めた父から上機嫌な声で電話が来て「弟(上述の叔父)が保証人になってくれる」と、まるで娘の夫に対する当てつけのように言った。それを聞いた夫は「引き受けてくれたにしても、あらためて本人が福島にあいさつに行くべきだと思います」と父に言った。父はそれに対して何も言わなかったが、後日叔父が「Yがうちまで頼みに来たよ。つまみちゃんのダンナさんが筋を通せって言ったんだってね」と教えてくれた。夫に「本人がうちに来て直接『保証人になってください』と言ったら受けてた?」と聞いたところ、「直接言われたら断れないかなあ」という回答だった。
しばらく表面上は平穏な日々が続いたが、2010年頃、父は、初期ではない癌が見つかったことを機に、とっとと介護付き老人ホームへの入居を決めた。行動の迅速さの理由を問うと、介護はプロに頼みたいと以前から思っていたし、寮の管理人の仕事がストレスだらけだと言って宿泊する部屋があるのにしょっちゅう帰ってきては不機嫌そうにしているYと一緒にいたくないからだと言った。YはYで、父親の無神経さに腹が立つと吐き捨てるように言った。もちろん私はどちらにも同調しなかった。大人になろうとしないまま老人と中年になってしまったふたりと自分の血が繋がっているのかと思うと心底ぐったりした。
2013年、父は飄々と死んだ。うらやましい最期だった。そしてYは仕事を辞めた。
父のマンションの相続を放棄することを私は早い時期から決めていたが、Yに「マンションは好きにしていいが、そのかわり、今まで私が貸したお金は返してほしい。少額でいいから毎月振り込んで、それをもって生存確認にしたい。あとは連絡は要らない」と言うためにYを呼び出した。そこには夫も参加した。Yは、就職の際の保証人問題以降、年下である私の夫を少し怖れているフシがあった。それは私にとって好都合だった。
話し合いは、Yと私の中間地点である秋葉原で行なうことにした。Yは電車が苦手だった。基本、どこに行くにも自転車で移動し、自転車で行けない場所には行かずに生きていた。でもこの会合をYのテリトリーで行なうつもりはなかった。出向いて来なければ相続の放棄もなしだ、ぐらいに思った。
当日、夫と私は待ち合わせの午後6時より早く秋葉原に行くことにした。せっかくアキバに行くのだから、Yと会う前に、駅前のヨドバシカメラと同じビル内の大型書店も見ようということになったのだ。気の進まないYとの話し合いだが、そういう付加価値で気を紛らわせようとしたのかもしれない。
ところが、待ち合わせの場所を一度通過しようとしたらそこにすでにYがいた。まだ約束の時間まで1時間あるというのに、本を読むでもスマホを見るでもない人待ち顔で立っていた。
その姿を見て膝が崩れそうになった。少し遠目に見るYの姿はちょっと押せばすぐ倒れそうな貧相なビジュアルで物悲しかった。その姿を見たとたん、私は今までのいろいろな、本当にいろいろなことが腑に落ちた。
Yは障害を持って生きてきたのだ、そしてこれからも生きていくのだとありありと悟った。性格的な問題もあるにせよ、誰もYのことを本気で考えてこなかったから待ち合わせ場所に1時間前から心細そうに立つことになってしまったのだと思えてならなかった。それは憐みとは似て非なる悲しくせつない気持ちで、不意打ちの発見だった。
Yは「発達障害」と診断されたわけではない。私が感じただけだし、本人はそう言われたら怒り出すのかもしれない。安易な決めつけだとプロにはたしなめられるかもしれない。でもそんなことは私にはどうでもよかった。私が確信することが、私にとっては診断より上位概念だった。それで今までのYに対するネガティブな感情がチャラになるわけでは全然ない。ろくでもないヤツだと思う。はっきり言って嫌いだ。それでも少し救われた。私が救われたのだ。
あの日、Yは律儀に借用書を書いて持ってきて、以来、毎月必ず25日には1万円を振り込んできた。しかし、年金受給を待たずに電話してきて、大変申し訳ないが、やはり生活費が足りず、市の相談窓口に行ってマンションを売ることにした、そして単身用の安いマンションに住み替え、差額のお金で年金受給を待つことにしたと言った。
それは予想していたことだったし、マンションを売ることになったら決して知人ではなく行政の窓口に相談して、と言ってあった。そのマンションがわりと高く売れ(数字を聞いて逃がした魚の大きさを知った)古い元団地を安く買ったことは選択として悪くない気がした。私は、月々の私への返済はもういいので毎月25日に私の携帯に電話をかけて生存確認にしたい、そしてマンションを売った差額と、10万ちょっとの年金と清掃の仕事で、なんとか自力で生き切ってほしいと言って電話を切った。その直後にコロナ禍が始まった。
Yは律儀に25日になると欠かさず電話をかけてきた。コロナに罹患することもなく、月に数万になるパート仕事は続けているとのことだ(正直、実際はどうかわからない)。電話を忘れたことはなかった。そういうところも妙にYらしく、メールを送ってきたことは一度もない。一言も言わないがメールを打てないのだ思う。
私がそのことを情けなく思うことはもうない。不便だろうなとは思うがYが生きて行くには支障はない。むしろインターネット関係の多種多様なリスクは回避できる。少なくてもオンラインカジノとは無縁だ。
そして、文頭に戻る。2025年3月25日、Yからの電話がなかった。この制度を開始して5年経って初めてのことだった。私はYの身になにかあったと確信し心拍数が上がった。それは心配だからというより、これから起こる事態への拒否反応だった。めんどくさいと思った。
Yが今いる住所を検索すると、最寄り駅からバスで30分近くかかるとある。そもそも、最寄り駅名も初めて聞く。何線?思えば父のマンションは便利だった。2時間で行けた。父が入所した老人ホームはもっと遠く、入院した病院はさらに遠かった。Yの住所はさらにさらに遠い。
幸い、今(3/25)は仕事が春休みだがYの病気(勝手に決めている)が長くかかるとか、入院先がもっと不便な場所だったら自分はどうなるだろう、死んでいてくれた方が助かる‥いや、さすがにそれはどうかと思うが、でも正直そう思う、だってYには迷惑をかけられっぱなしだった、法事のドタキャンは恒例行事で父の納骨も来なかった、高熱をおしてお金を届けたこともある(コロナ前)、それを今さら兄だから、病気になったのだから、面倒をみろとか死んだら悲しいだろうとか、人は勝手なことを言うのだろう。なんだよそれ。ふざけんな。
そこに、携帯の着信音が鳴る。Yだ。生きてた。「申し訳ない。すっかり忘れていた。仕事中で着信にも気づかなかった。ん?元気ですよ。今のところ、特に体調に問題はない。トシだけど。ははっ」
憮然としたが、今後は連絡を忘れないでほしいとしか言わなかった。Yは来年70歳になる。今の状況がいつまで続くかは神のみぞ知る、だ。
by月亭つまみ
菜々
本を一冊読んだ様な感じです。心に染みました。
つまみ Post author
菜々さん、ありがとうございます!
そんなふうにおっしゃっていただけると、長年、自分の家族は恥部まみれで隠す場所だらけだ、ぐらいに思って来たことが(比喩!)、全部ネタに思えて肩の力が抜けるような気がします。
プリ子
一気に読みました!
秋葉原でのくだりは映画のように情景が浮かんできました。
自分には兄弟がいないので、「仲が良い」「仲が悪い」とうすぼんやりとしか見えない関係性が、急に細かく、鮮明に目の前にあらわれました。
ぜひ一冊の本に!
『兄の終い』×2(まだ終わってないけど)+父。
ぺるそな
つまみさん、こんにちは
母子共依存の件、「ああ、同じだなぁ」と思いながら読みました。
ポッドキャストで以前「母親と息子の共依存への嫌悪感は、多分人より強い」とおっしゃっていましたが、このことだったのですね。
義母と義弟が完全な共依存です。今は8050問題の渦中にいます。
GWに義母と夫の墓参りに行きました。
義母の家へ寄ると、台所には「義母が義弟のために用意しておいた朝食」(ご飯をチンして味噌汁を温めなければいけない)が手付かずのまま残されていて、菓子パンのようなそのまま食べられるものの袋が残っていました。
義母がそっと食卓上のティッシュの箱を持ち上げて(義母はそこに義弟のためにお金を置いている)、確認する(お金はなくなっている)のを見ると、怒りたいような悲しいような、収まりの悪い不快な感情が湧き起こります。
夫は生前、義母から義弟についての相談がある度に「世話を焼くな。金を渡すな。」と言い続けていました。それを聞く度、私は同じく母子共依存だった母方の祖母と叔父(どちらも故人)を思い出して「またか」とかなり憂鬱な気持ちになっていました。
義母は自分の死後に少しでも義弟の生活の足しになれば、と高齢者でも加入できる生命保険に入ったそうです。その義母の命のお金を多分義弟はあっという間に使ってしまうでしょう。義父の遺したお金に手をつけず、年金でつましい暮らしをしているのが窺える義母宅の玄関に、新しいGUCCIのキャップが燦然と掛かっていました。「パチモノであってくれ」と祈るのみです。
つまみ Post author
ぺるそなさん、こんばんは!
コメントありがとうございます。
周囲の話を聞く限りにおいては、母子共依存、父子共依存よりはるかに多い気がします。
ぺるそなさんのお義母さんと義弟さんも、私の母と次兄も、母に変える意思がないわけで、私たち(勝手に一緒にしてる)が正論めいたことを言えば言うほど、「わかってあげられるのは私だけ」になって、ガードを固くしている気さえします。
基本、自分が先に死ぬ、だから生きている間はできるだけのことを、とか思ってしまうんでしょうかね。
そう、怒りや不快も感じますが、悲しいってすごくありますよね。
あと、どんなことよりイライラします😅
パチモノじゃなきゃ許さん!!
ぺるそな
つまみさん、こんにちは。
返信ありがとうございます。
つまみさんのお母様と同じく義母に変わる気がないので、私はずっと愚痴の聞き役に徹しています。義母からは「ぺるそなさんから言ってもらえれば義弟も聞くかも」と言われますが、そんな訳ない😣 母子共依存の厄介さは母方の祖母と叔父で身にしみています。それに私の本音は「将来、迷惑をかけられたくない」という自己保身的なものなので、正論めいたことなど言えたものではありません。
つまみさんが発見されたように、「他人であること」を意識して接すると横柄な態度に出て来ないので、時々は義弟の愚痴も聞いてあげています。親のお金で暮らし、親に生活の全てを面倒見てもらっているからこそ、母親から「ちゃんと仕事について欲しい」という今の自分には叶わない期待をいつまでもじわじわと寄せられ続けていることへの苛立ちがあるようです。(一応不甲斐ない自分への苛立ちもある、と思いたい)
自業自得と言ってしまえばそれまですが、時々、「この人が女に生まれていたら、こういう事態にはなっていなかったかもしれない」と思うことがあります。私達世代の女の子が「女のくせに」とか「女には必要ない」と言われて我慢を強いられたことがあったように、「男たるもの自立して家庭を持て」というような圧力があったのかもしれない。社会に出てやっていくことは無理でも、家庭に入ってやっていくことはできたかもしれない…それでも私は義弟が嫌いです。
それにしても、こういう身内の支えになるのは「親の遺したお金」ですね。義父が亡くなった後、夫も相続放棄をしました。義父は結構まとまった資産を遺してくれたので、義弟も贅沢さえしなければ生きていくことできるはずですが…