人も犬も、幸せかと問う前に「安心できるねぐら」
こんにちは。カリーナです。今日は、4月1日。あと30分ほどで新元号が発表されて、その元号がスタートするのは、ひと月後なのですね。年々、カレー濃度が上がる、わが脳細胞。平成にも、どことなく慣れないままだったので(31年かかっても!)、新元号には、慣れないまま死んでいくのは確実と思われます。人生って短いね!
いきなり話題が変わりますが、犬の話です。前の犬を飼っているときもそうでしたけど、わたしは、いつも犬を飼いつつ、犬に悪いような、申し訳ないことをしているような気がするのです。まず、「あんたの家に連れていってくれ」と頼まれもしないのに、勝手に連れてきたこと。さらに家の中に四六時中閉じ込めているので、「飼っているということもできるが、一種の監禁でもあるな。つまり拉致監禁だな」という感覚。
散歩のときもリードをつけていて全力疾走など、ごく短時間しかさせてあげられないので、さぞ不自由であろうとも思います。(自由ならいいのかどうかは、これまたわからないのですが)。
そういうわけで「スー、君は幸せなのかい?」と常々思っている。
先週の2日間、娘の友だちがうちに泊まりに来ました。わたしが寝ているときにやってきて、スーが数回軽く吠えている声が聞こえましたが、すぐ落ち着いたので「まあ、なんとかやっているだろう」と思って、そのまま寝たのです。確かになんとかやっていたけれど、翌日、ふと気づくと、私の机の下にもぐっていたり、普段は決して入らない部屋から首だけ出して様子をうかがっていたり…どうも、落ち着きがありません。
ほぼ一日中、寝そべっているソファとストーブ前という居場所をお客さんに奪われ、家庭内ホームレスとなっているようです。
お客さんが帰った日の夜。「ああ。やれやれ。疲れたよ」とでも言いたげな表情と態度で「そう、ここ、ここ、ここですよ」とソファにのぼったり、ストーブにやけどしそうなほど近づいて思う存分、寝そべっている姿を見ていたら、幸せかどうかはともかく、安心はしているんだと思いました。この家は、スーにとって安心して眠れるねぐらであり、わたしたち家族は、その安心をおびやかさない、慣れ親しんだ存在なのは間違いないんだな、と。
人にとっても犬にとっても「安心できるねぐら」の存在がいかに大切か。幸せは、安心して眠れるねぐらがあってこそ。スーの様子からそんなことを思った週末でした。
新元号、何になるんでしょうね。 次の時代も、安心して眠れるねぐらがありますように。大きな災害が多くの人々のねぐらを根こそぎ破壊しませんように!まじ、頼む。
今日は、ゆみるさんの「黒ヤギ通信」が公開されています。手紙のやりとりをしてこそ生まれる、息の長いつながり。とてもいい話です。前回から続けてお読みください。