スマートフォンの画面に、赤ん坊は電子羊の夢を見るのか?
子どもの数が減ったと言われる。確かに、コンビニの前でたむろするような、ちょっとひねたガキも減ったし、小学校のクラス数はどんどん減っているというし、専門学校や大学は淘汰の激流にさらされている。
そんな時代にあっても、子どもがまったくいないというわけではないし、町に出ればベビーカーに赤ん坊をのせて歩くお母さん、お父さんも多い。どちらかというと子どもが好きなので、ベビーカーが来ると、どれどれご機嫌かね?と中をのぞき込んでしまう。
と、その時に、最近よく出会うのは、なかの子どもがスマートフォンを両手で持っている、という光景である。お母さんなり、お父さんが、ベビーカーを押している。で、押されているベビーカーのなかで、まだおしめも取れていないだろう幼児が、あの独特の両足を前のバーに乗せる格好で、くたっとなりながら、両手にスマートフォンを横持ちにして、動画を見せているのだ。
うちの子どもたちはもう二十代の半ばから後半に入ったのだが、彼らが小さな時もスマートフォンを持たせることはあった。でも、それはレストランも片隅で、久しぶりにあった大人同士が込み入った話をするときに限られていた。「ほら、邪魔しないで、ゲームさせてあげるから」という、大人が相手をすることができないときに、仕方なく見せる、という感覚だ。
でも、いま多いのは、もうベビーカーに乗ったら条件反射的に親が、スマートフォンを渡すという流れ。これがもうデフォルトのようになっているパターンをよく見かけるようになったのだ。
正直、まだ会話も出来ないような赤ん坊は、ベビーカーに乗せて、たまに揺らしながら走っているだけで、きゃっきゃっ言いながら喜んでいたはず。ところが、スマートフォンを持たされた子どもはしっかり両手でスマートフォンを固定し、視点を画面から外さない。信号待ちのときに、半泣きで親にアピールして、ボリューム調整させる子もいる。親は親で、ファミレスだろうが、バスの中だろうが、電車の中だろうが、「このくらいならいいでしょ」という雰囲気で、音量を上げる。
いやまあ、子どもだから仕方がないねえ、とはならないのである。うるさいのである。だけど、みんな、子どもだから言わない。まあ、大人にも言わないけど。昔はこういう人が少なかったから、「すみません、少し音が」と言えば、相手も「あ、どうもすみません」と恐縮したものだが、いまどき、誰かを注意しようものなら、何をされるかわからない。そして、たまたま注意して、相手が謙虚な人で、音を絞ってくれたとしても、。次の駅から乗ってきたヤツがこれまた大声で電話するようなヤツだと、まわりから「あれ?この人には注意しないの?」みたいな、意地悪な視線を向けられてしまう。
ということで、電車のなかくらい、コーヒーショップやレストランのなかくらい、スマートフォンの音を響かすのは辞めて欲しい、と思うような人は、自らヘッドフォンをして、周囲を遮断し始めている。「人は人、鬱陶しいけど気にしない」という人は注意しない。その繰り返しで、少しの電話くらいならOKという雰囲気が出来上がってきて、いまではオンライン会議だって、普通に席に座って話している人と人との会話より静かだよ。という感じになってきている。
あ、話がそれた。言いたかったのは、赤ん坊だ。スマートフォンを赤ん坊のときから両手にしっかり握って、過ぎていく風景よりも、小さな液晶画面の動画に見入ったものがこれまでと同じ人格で育つとは僕には思えない。正直、不安だし、怖い。何年かして、自分が80歳を越えたあたりで、スマートフォンを見ながら育った新人研修医に腹を切られたりするのはイヤだなあ。あ、でもモニター見ながらなんかするのには慣れているのか。付け焼き刃でやられるより、生まれた時からモニター越しに世の中を見ているほうが、手術はうまいかもしれない。
ええ〜、でも、やっぱりイヤだなあ。う〜ん、いいんだけどさ。イヤだなあ。
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植松事務所
植松雅登(うえまつまさと): 1962年生。映画学校を卒業して映像業界で仕事をした後、なぜか広告業界へ。制作会社を経営しながら映画学校の講師などを経験。現在はフリーランスのコピーライター、クリエイティブディレクターとして、コピーライティング、ネーミングやブランディングの開発、映像制作などを行っています。