今だからわかる。「体験にはお金を遣ったほうがいい」のほんとの意味。
年をとって思うのは、といってもまだ63歳、高齢者界の入口に立ったか立たないかの未熟者ですが、それでもかつてのわたしに言ってあげたいことがあります。
それは、「その思いつきの外食も、プチ旅行も、ライブも観劇も行け。あとで後悔することなし!」ということです。
20代のころは後先考えず、演劇やダンスの公演に「勉強」と称して通いまくっていましたが、結婚して段々と「家計」というものを考えるようになってから、いや、それ以前でもちょっとした旅行なんかは特に「ムダづかいじゃないか」「いいのか、こんなことしていて」「だからお金が貯まらないんだ」とうっすら後ろめたさみたいなものを感じていました。
それは、ひとえに夫婦ふたりして計画性のないお金の使い方をしていて「予算を立てる」という習慣がなかったせいですが、夫が死んで7年たった今、改めて思うことは…。
どの外食も(思いつきで行ったり、レジャーの後で作るの嫌で寄ったりしたのも含めて)よかった。お金が途中でなくなってATMに駆け込み、クレジットカードでお金を借りたスキー旅行も、仕事が激減して真っ青になる寸前のローマ旅行も、いや、そんな大ごとじゃなくて、もっと小さなドライブや1泊2日の温泉旅行や、ちょっとしたことあれこれ、全部、全部、行ってよかった。
思い出すのは、そんなあれこればかりだ。そりゃ、日常も大切ですよ。とっても大切。でも、それぞれの日が似ているから、記憶の底に静かに満ちる水面みたいなもので粒だってきにくい。
ちょっとしたお出かけや旅行は、それらの断片がくっきりと浮き上がる。すべてではないけど、その一場面。あの瞬間、この瞬間。あの笑顔、あの表情。ほら、もう、そんな気楽な感じで「お出かけ」する相手はいないからね。
「体験にはお金をつかおう」ってアドバイスをしばしば見るけれど、それは「人間を成長させる」とか「見聞を広め、教養が身につく」なんて理由から。まあ、それもあるにはあるでしょうが、そんなの大したことないと思う。
もっと正しく「大したことある価値」は、それが「記憶」という長く長く残る、おそらくは個人にとって唯一の「持ち物」になるということ。家を失っても。健康を損なっても。そして、いつでも、どこでも、何度でも、好きなときに、好きなだけ、無料で引き出して楽しめるということ。なんなら、また、その場所を訪ねてしんみりしてもいい。だれかに思い出話をして「もう、聞いた」と嫌がられてもいい。
ラテマネーというやつが、小さな無駄遣いの象徴みたいに言われていますが、それは一瞬にして消えるものを買う行為が習慣化し、お金が貯まらないってことですよね。まあ、確かに、そのとおり。
でも、カフェラテ購入がある一時期の濃密な体験と結びついていたなら、長く長く残るものへの「投資」になるかもしれません。お金の価値って、ほんと時間が経たないとわからない。
「長く残るものにお金を遣ったほうがいい」というのは、多分正しい選択でしょう。家、しかり。家具、しかり。そして、交際費という名の「人間関係」に使うお金も実は、長く残るものに対して遣うことかも。健康とか、知識とか、そういうのも?数え上げればきりがないし、実感が遠のくな。まあ、みんなそれぞれが考えればいいことですね。ひとり一人、違うんだ。
わたしは、体験。ともに過ごした「いつもと少し違う体験」。
あのころ、よく交わした会話を思い出します。
「もう、ごはん作るの面倒やなあ」「焼き肉でも行こか?」「お金、ないよ」「なんとかなるんちゃう?」
なる、なる(笑)行け。そして生中、頼め。肉、焼け。食え。しゃべれ。笑え。
オバフォーは今週もコツコツと更新します。時間のあるときに遊びに来てください。待ってまーす。