区切りを迎える春。自分に向けた「贈る言葉」。
こんにちは、カリーナです。
土曜日に娘がアイルランド留学に出発したのですが、その前から姉や友だちに「さびしいだろう」「さびしくなるね」とさんざん言われてきたので、その夜、布団に入ってから、さびしがろう、さびしがろうとしてみました。おおざっぱにジャンル分けするなら、「さびしい」に入るのかもしれないけど、その気持ちのなかには「すがすがしさ」も入っていて「うん。これは厳密にいうなら『さびしい』とは違うな」と思いました。
まあ、一年近く家を離れるといっても、帰国後さらに1年、自宅から大学に通うので自立でもなんでもありません。ただ、わたし自身が親元を離れて大学時代を過ごし、少しずつ家を窮屈に感じはじめたので、娘も家を窮屈に、不自由に感じるようになるでしょう。「ひとりですべて判断して暮らす自由」は一度味わうと手放せません。そう思うとわたしの子育ては、99%終わったんだと思います。
その日、布団のなかで、自分にこう言いました。
「お疲れ、わたし」。
この言葉がよかったです。しみじみよかった。これから、年齢とともに「終わり」や「別れ」を迎えることが増えると思うのですが、そのときに「お疲れ、わたし」って言おうと思いました。ちゃんと言おう。自分に向けて、ちゃんと、自分で言おう。この短い言葉を自分に向けて言うことで、自分が自分なりにがんばったこと。懸命だったこと。努力したこと。自分にしかわからない試行錯誤や苦労を認めてあげられるのは自分だけ、だと改めて悟ったのです。
思えば、わたしは、これまで「見送られる」立場でした。田舎から出てきたので父母に見送られ、姉に見送られました。今年、はっきりと「見送る」立場になったと思いました。このまま何度も「見送り」を続け、そしてこの世から見送られるのです。見送りって深いね!
そういうわけで、僭越ながら言わせていただきましょう。「お疲れ。この春、ひとつの区切りを迎えたみなさん」(今晩、声に出して自分に言ってみて。しみじみいいから)
今日は、ゆみるさんの「黒ヤギ通信」が公開されています。切手や手紙から、「参考文献は原典(または近いもの)にあたってみることが大切」という深い認識まで。ゆみるさんのひきだしの多さ、深さに興味ますばかりです。
カレー記念日、いつもおもしろいけど、今週は、カミュエラさん、にゃまのさん、いまねえさんのおもしろい短歌が続々と登場します。毎日チェックしてくださいねー。投稿もお待ちしています。「よもじ猫」もこちらからぜひ!
はしーば
言います!今晩。早速。
ありがとうございます、カリーナさん。
また、気づきを貰いました。