虚無には陥る。大事なのは、陥ったままにならないこと。
わたしの夫が倒れてどれぐらい経ったころからか、月に一度、あきらさんが電話をかけてくれるようになりました。あきらさんは、このオバフォーでSex and the Ageという往復書簡形式の連載につきあってもらった人です。わたしは、ここひと月に起こった出来事や気持ちの変化などを思いつくままにベラベラとしゃべります。
あきらさんは、「わたしには、わかるようでわからないと思うから、他人事として無責任に言うけど…」とか、「わかっているようで、わかっていないと思うけど」と毎度毎度、つけくわえます。
サバサバした、ものにこだわらない風の口調と裏腹に、「わかる」と言い切ることに、ものすごく用心深いというか、「わからない」という前提を崩さないでおこうと決めているというか。
不思議なことに「わからない」「わからない」と言われているにも関わらず、わたしは、自分の言葉が正確に伝わっていると感じて、さらにベラベラしゃべり続けます。また、わたしが状況を細かく描写すると、それを脳内で再生してくれていると感じるので、より一層描写を細かくして正確に伝えようとします。つまり、大変に「語り甲斐」があるのです。
昨日も、そのあきらさんにダラダラといまの胸中を話していたら、「虚無には陥る」という話になりました。彼女は、仕事の性質上、いろいろな年代の女性を知っていて、高齢女性たちのさまざまな生き方を見ているのでしょう。
年とともに、ふとしたときに虚無には陥る。大事なのは、陥ったままにしない自分なりの方法を見つけること。早寝してもよし。ドラマ見まくってもよし。
そうだよねえ。陥るよねえ、とわたしは、安心して言いました。いつも、自分が虚無の穴に落ちて、そしていつか、そこから這い上がれないぐらい深い穴に落ちたままになるんじゃないか、と不安に思っているからです。
あきらさんは、そんなとき、刺繍や編み物の場を作るらしい。上手な人がいれば、初心者に教えてもいいし、みんなで黙々と手を動かしてもいい。ときどき、手はお留守になっておしゃべりに興じてもいい。
虚無に陥るのは仕方がないけど、陥ったままにしない工夫としての手仕事。
おしゃべりを目的に集まると話が途切れるのを恐れて、ついだれかのうわさ話になったり、悪口になったりして、あとで自己嫌悪に陥ることもあるから、「手を動かしながらのおしゃべり」は、いいなあ、虚無防止策としてとてもいいなあと思いました。
ブログを見たら、あきらさんは、フラワーアレンジメントの場も季節に一度、作っていた。さりげなく実践するなあ。(ちなみにめちゃめちゃおしゃれな人でもあります)。
そういえば、「いどばた。」のお題も手仕事でしたねーー!奇遇だあ。寄せられたコメントも楽しい。手を動かすことは、知らず知らず、心を救うんだなあ。
年をとればとるほど、悩みがあればあるほど、「動かせ、手」なのか。
この人が幸せそうなのも「手」を使って楽しんでいるからですね。今週もオバフォーは、コツコツと更新します。時間のあるときに遊びにきてくださいねー。「カイゴ・デトックス」またやりたいなあ、とぼちぼち動きだそうとしています。こちらも、ぼちぼちお楽しみにしていてくださいねー。
Jane
編まなくても誰も困らない編み物をすごいスピードで一人編んでいる中年以上の女性を見ると、私の中の虚無感が反応することがあります。
年をとるにつれて達成感はすぐ消えるものだと身に染みてくるので、達成の過程でも虚無感が消えないのですが、人生は達成と消失の繰り返しだからってやることをやめちゃうと、虚無に陥ったままになっちゃいますよね。
シャボン玉 吹き続けるか やめちゃうか
集まるには何か生産的に聞こえる理由があったほうが、悩みを打ち明けるほうも聞くほうも救われますね。ほかの人の苦しみが自分の苦しみを増幅してしまって受け止めきれない人もいますし、打ち明けるほうも節度を保てますから。
昔、大事な友達にそう言われたことがありました。