宮迫さんに思う、苦手な謝罪と「似合わない言葉」
ワイドナショーで宮迫さんのYouTube謝罪について武田鉄矢さんが「この人は、悪人を演じることのできる人。この謝罪では、似合わない言葉を使っている」と語っていて、なるほどなあ、と思いました。
宮迫さんという人は、わたしたちその他大勢と同じく、小賢しさや悪賢さやせこさを持ちつつ、人のよさと根っからのサービス精神をあふれんばかりに感じさせ、それらが絶妙なバランスを保っていました。世の中には、小賢しくて不機嫌なだけ、せこくて意地悪なだけなんて人が大勢いるんですから、宮迫さんは、やはり抜群に可愛らしくてチャーミングです。
そういう小賢しさや悪賢さやせこさをもつ人は、わたしもそうですが、謝罪が苦手ですね。
だれかをケガさせたり、損害を与えたり、事故に巻き込んだり…という場合は別です。そんなときは「許されない覚悟で」謝罪しなければなりません。宮迫さんだってそうするでしょう。でも、そうじゃない場合、直接被害を与えた人以外に謝る場合、どうしても「本当には反省していない部分」がのぞいてしまう。頭を下げながら目で気になるものを追ってしまったり、頭を下げつつ床のホコリを見つけてしまったり、お腹の減り具合に意識が飛んでしまったり。子どものころ、親や先生に叱られていたときから、すでにそうだったもんなあ。
「似合う言葉」を見つけておくのは、宮迫さんのような芸能人に限らず、とても大事だと思います。宮迫さんは今、似合わない言葉で謝罪しよう、真心を伝えようとしていてとても大変そうです。それ以外の選択肢はないと考えてもいるように見えます。でも、「似合わない言葉」は、多くの場合、「世間が求める借り物の言葉」なので自分の行動を制限するし、その方向性を決めてしまうし、不自由なほうへ、自らが自らを抑圧する方向へ導き、袋小路に入ってしまいかねない。
謝罪だけではありません。日々の自分の感情を「借り物の言葉」で体験していると不本意な方向に自分を導いてしまう。自分の実感を認めて、そこに言葉を与えてあげないといけない。小賢しくとも、せこくとも。
自分が口にする言葉と生きやすさは分かちがたく結びついていると思います。