食べ物という言葉。犬のおやつも、大阪の飴ちゃんも、さりげなく。
先週、犬のスーがドッグホテルにお試しステイをしたのですが、そこのホストさんがお迎えにきて、うちのなかで少し過ごしたあと、「おやつ、ちょっと、もらっていっていいですか」と言うので、「はい!もちろんです!」とおやつの袋を渡しました。そして渡しながら、つい「おやつって、言葉ですよねえ」と言ってしまいました、しみじみと。最近、よく考えていたことなので。
その女性は「え?」っと、「それどういう意味ですか」みたいな顔で玄関のドアに手をかけたまま聞き返します。うまくいえそうになかったけれど「いやあ、動物と人間って食べ物を介して理解すると言うか…」というと「ああ、そうですねえ」と、ほどよい相槌を打ってくれました。
人間が動物に食べ物を与えることは、「危害を加えないよ」「こんにちは」「友だちになろう」「おなかをいっぱいにしてあげるよ」「ずっと面倒みるよ」などの意味がぎゅっと凝縮しています。「食べ物」が「言葉」。おそらく、「食べ物」以上の言葉は、人間と動物の間には、存在しないんじゃないでしょうか。特に少量を渡すおやつは、さりげない挨拶だったり、感謝だったりして、とても繊細です。
もちろん人間と暮らす犬や猫とは、その先に表情や声色から気持ちを読んだり、いくつかの言葉の音から意味を学んだりしますが、でも、あまり「人間的なコミュニケーション」にばかり期待しないほうがいいんじゃないかな。
わたしは、犬と「わかりあえる」と信じる一歩手前に踏みとどまって接したいと思うようになりました。人間側に引き寄せすぎない一帯に、犬と暮らす妙味のようなものがある気がするのです。
思えば、人間が人間に食べ物を与えることも膨大な「意味」をもっているのでしょうね。動物に対するのと同じく、「危害を加えないよ」「こんにちは」「友だちになろう」「おなかをいっぱいにしてあげるよ」「ずっと面倒みるよ」…なんかも、もちろんあるだろうな。
食べ物の交換は、一番はじめの心の交換だな。大阪のおばちゃんが飴を配るのも、そう考えると深いですね。飴を渡して「危害を加えない」ことを伝えたのち、互いの口のなかを甘いもので満たして「舌戦を避ける」。
…なんか、まとまらないことを書いてしまいました。連休最終日だからいいか(笑)
今日のプリ子さんの記事は、めちゃめちゃいい話。その思い出の古着もとびきり素敵。トレーンって優雅だなあ。ぜひ、お読みください。今週土曜日夜9時からの「在宅デトックス」も参加者募集中です。こちらから、気軽にどうぞ。
都忘れ
カリーナさん、こんにちは。
わが家に犬が来た頃、激太り(私が)していたので、ダイエットのつらさが身に染みていました。
それで、犬は太らせることのないようにしようと。
おやつは、一応あげていましたが、歯磨きガム(おやつかな?)、チーズ、ボーロちゃんなど、いつもほんの少しだけ…。
亡くなった今になると、もっともっとおやつをあげたら良かったのに…と思います。
でも、太らなかったから、ずっと内臓の調子は良かったし、元々、弱かった後ろ足への負担も少なかったはず。
そう考えるとこれで良かったのですが、感情的には、山盛りのチーズをあげたら喜んだだろうな~なんて。
ついつい時間があると「タラレバ」の波が襲ってきます~。いや~ん!
Jane
私は高校の頃までは、友達がなぜ遠足でお菓子交換を熱心にやったり、学校に持ってきた飴やガムを自分が食べるときに周りにすすめるのか分からず、「いる?」と聞かれると遠慮していつも断っていました。なぜ自分以外の人たちが皆、毎回もらうのかも分かりませんでした。でもその後、それが付き合いというものなんだなーと分かり、以降は欲しくなくてももらうようにしました。なるほど、「心の交換」ですね。今では、アメリカ人に、自分がすすめた食べ物を率直にばっさり「いらない」と言われて、ちょっと傷ついたりする私です。