(7)決定権が私にある
何としてでも自分のお金を使いたくない私は、わずかな望みを持って、ふたたび家捜しを行った。するとなんと、今まで探していなかったところに、母の通帳とキャッシュカードと暗証番号のメモがセットになったものがあったのだ!
ATMで試したところ、そこそこ入ってて、引き出せた!
神よ……!!!
天上から光がさしてきて、天使が私の頭の上をくるくると回るのが見える…!
その後、父から、「暗証番号間違えてた、正しくはこっち」という追伸も来て、とりあえずお金のことはしばらくは何とかなりそうでほっとした。
しかし、もしダメだったらどうしてたんだろう、私。
道に放置して逮捕されてたかな。
面会のときに、私に「物を買って来い」と電話してきて「対応しないと虐待になる」とおどしてきた例の看護士とはじめて会ったのだが、めちゃくちゃ若い人だった。びっくり。その押しの強さは何。逆に、若すぎて、親を大事にしたくない子どもがいるということが想像つかないのかもしれない。「この大きなシステムを一緒に回しましょう! さあ!」って感じ。「道に放置します」って言ったら卒倒したかもな。
ところで、母の救急搬送のきっかけは、階段から落ちて大腿骨を骨折したことだった。
「骨折、どうします?」と整形外科から相談があった。
母の手術をする/しない。なんと、決定権が私にある!!
20年間、嫌なやつが私のことを虎視眈々と狙っているので、必死に避ける、という状態だった。無視しはじめた直後は特に、留守電とかメールとか、とにかく気持ち悪い感じで私にすりよってきた(夫がその口真似をするぐらい、滑稽な口調)。娘に無視される自分、というのが許せなかったのだろう。それこそ「世間体が悪い」。
当時私が住んでいたマンションは、少し離れた公園から見下ろせる位置にあったのだが、窓からふと公園を見たらそこにいたり。職場(公的機関なので誰でも入れる)に突然現れたり。ストーカーかよ。
でも今は、死にそうな状態でいるのを、私がマネージメントする状態なのだ。ヤツのことを考えなければいけないのは嫌だけど、状況が把握できるうえに、私に決定権があるのは、いい。すごくいいぞ。
呼び出されて、整形外科医と呼吸器内科医と面談をする。
整形外科としては、手術して、リハビリして歩けるように努力して…という通常ルートがまず選択肢としてある。でも、呼吸器内科としては、間質性肺炎が悪化していて、1年以内には死ぬだろうと予測している。そんな状態でリハビリできるのか? 手術自体も肺にかなりのリスクなのでは? 等々。
私のお気に入りの呼吸器内科のオタク医者は「Yさん(母のこと)、ちょっと元気になってきて、Yさん節っていうんですか、あの口調! キター! って感じですよー」と楽しそう。母のあの押しつけがましい口調を笑ってくれる人がいて、うれしい。
それはともかく、普通に考えて、手術、しないでしょう。しても意味ないでしょう。
「しなくていいっす」「マンパワーの無駄っす」
医者には「ほう?」という顔をされた。コロナでトリアージとか言われている最中だったので、ちょっとよろしくない発言だったかもしれない。
でも私の本心は、とにかく、今より元気になってほしくない、寝たきりで不便な状態でいてほしい、できるだけはやく死んでほしい、ということなのだった。だったら「手術してそれが原因で死ぬ」でもいいんだけども、確実ではないし、半端な状態になったら面倒そうだし。
そして私はこの決断を、父にも一切相談しない。「リスクが高いから手術しないほうがいいって言われた」ということにする。相談しても結論は一緒だ。
ていうか本人の意志はいいのかね? まだ朦朧としてるから、私が決めちゃっていいってこと? 老人だから子どもに決めさせるの? なんて怖いシステム…!
でも、だったら私のしたいようにさせてもらいますよ。だって本人は何の準備も伝言も残してないんだから。
もしも親と仲が良くて、希望を推察できるような仲だったら、できるだけかなえてあげようと思うだろう。少なくとも、説明して同意を得るだろう。私だって大事な人が相手ならそうする。
だが母に対してそんな感情は無い。まったく無い。むしろ積極的に、何がなんでも、是が非でも、希望をかなえてあげたくない。もちろん話もしたくない。
これっていわゆる親不孝? 母の好きな「世間」からしたら親不孝なんだろう。でもそもそも親孝行って何ですか? 何それおいしいのレベルで「親孝行」という言葉の意味がわからない。親の気に入ることをする? 親の喜ぶことをする? それは私にとっては、自分のしたくないことをするということだから、頭が理解を拒否してしまう。
親不孝どころか「復讐」なのかもしれないが、自分の意識としてはひたすら「あんな人間に関わりたくない」「手続きさせられるだけで大迷惑」としか思えないのだった。
絹ごし豆腐
こういう思いをウッカリと知人に喋ってしまったりすると、「それでも仮にも育ててもらって」とか「厳しくするのも親の愛」とかの、当事者にそれ言いますか、そうですか、ということを言われることはありませんか。
これって、性被害に遭った人に「そんな時間に出かけるから」「隙があったのでは」というのととても似ていると思うんですよね。
性被害の場合のそうした発言は、あちこちで「二次被害」とハッキリ述べられています。
毒親育ちやモラハラ被害者も、同様の二次被害が少なからずあるなぁ、とよく思います。
やなこ
2月11日毎日新聞の高橋源一郎人生相談を深く頷きながら読みました
プリ子さんに読んでほしいなと一部抜粋させてください
相談 「毒親が施設入居拒否」
源一郎さんの回答 「施設に入ってもらうこと。二度と会いたくないこと。ずっと憎んできたこと。それを直接本人に告げなさい。もちろん、母親には理解できないかもしれない。けれど、私たちはみんな、してきたことの責任をとらねばならない。」
こうも言っています
「どんな手段を費やしても母親との関係を切断すること。そんな母親のために生きる必要は1秒もないのです。」
プリ子 Post author
絹ごし豆腐さん、ありますあります!!
「そうは言っても親子なんだから」「亡くなるまでにちゃんと会っておかないと後悔するよ」は定番ですね。その都度、自分がつらいと思ってきたことを否定された悲しさで、固まってしまいました。
これって、おっしゃるとおり、二次被害ですね! はじめて気づきました。それに、今まで信頼していたからこそ、その人にその話をしたのに、信頼していた人を一人失うという悲しさもあり。
漫画家高階良子の自伝的漫画を読んだのですが、戦後すぐ、ご飯も食べさせてもらえず、病気でも放置され、壮絶な子供時代でした。それに比べたら自分なんて、と一瞬思うし、そうした時代を生きてきた年配の人からしたら、むしろ教育を受けさせてもらえたとのだからありがたいと思え、と見えるのかもしれません。でも、誰もが食べるものに困っていたときと今とでは違うわけだし、となんとか自分に言い聞かせています。
プリ子 Post author
やなこさん、引用ありがとうございます…! 泣きそうになりました。こう言ってくれる人がいるだけで、本当にうれしいです。
毎日新聞、図書館で読んでみます。この方はこんな親を自宅で(身近で?)介護されているわけですよね、壮絶なつらさの中にいらっしゃるかと思うと、一秒も早く決別できるよう祈らずにはいられません。