エピソード9★朝を告げる寿司飯の匂い。
さてさて、聞いた話を形に残すことを仕事にしている「有限会社シリトリア」(→★)。
普通の人の、普通だけど、みんなに知ってほしいエピソードをご紹介していきます。
【エピソード 9】
昭和30年代半ばに神戸の繁盛する料理屋の娘として生まれたアキコさん。
今回は、祖父母・父母・娘の三代にわたって切り盛りしたお店の盛衰と、
アキコさんの目を通して見た大家族のお話です。
身内と、身内同然の板さんたちだけの小さなお店の時代の前編と、
会社組織に成長したお店とその後を聞いた後編の2回でお届けします。
神戸を走る私鉄の、とある駅前。昭和の初め、
大繁盛していた一軒の料理屋がありました。
もともと魚屋さんだったご主人が奥さんと二人で始めたその店は、
小さいながら板さんを数名置き、握り寿司、箱寿司はもちろん、
法事などの会食に供される懐石料理から、お手軽な持ち帰り寿司まで。
アキコさんの祖母は、今でこそどこの町にも見かけるような、
使い勝手のいい和食屋さんを、すでに昭和3年につくってしまったのです。
駅前という地の利と、本格的な味で大人気だったそのお店は、
祖父母夫婦の次男が若いころから手伝っていました。
昭和30年代には、商社のOLだったお嫁さんを迎え、
一人娘が生まれました。それがアキコさん。
由緒あるお店の名前から一字もらったと、小さいころから聞かされていました。
店を切り盛りする祖父母と両親、
そしてそこに働くたくさんの大人たちに囲まれて育ったアキコさん。
お勤め人のお父さんのいる家庭とは一味も二味も違う、
まさに「大店(おおだな)」という言葉が残る時代の空気が、
アキコさんの幼いころの思い出を彩っています。
寿司飯(クックパッドより)
「朝はいつも、寿司飯を炊くお酢の匂いで目が覚めました。
店の2階が居住空間。祖父母と私が一緒の部屋で寝て、両親の部屋があって、
あとは住み込みの従業員の人たちの二段ベッドのある部屋。
当時はまだ店自体も小さかったから、2階も手狭だったと思います。
階段を降りていくと、朝早くから仕込みで店内は忙しく、
祖父と父は市場に仕入れに出かけていました。
創業当時はまだ若かった祖母も、市場まで大きなカゴを背負って電車で通っていたとか。
私が物心ついたころには、もうすでに車でした。
マイカーもテレビも、商売柄、町内のどこの家より早く手に入れていました。
よく近所の人がプロレスを観にきていましたね。
料理を食べないお客さんで店はいっぱい(笑)」
一般の家庭で育ち、OLを経てお嫁に来たアキコさんのお母さんは、
結婚当初から夫と一緒に店を手伝います。
この店の経営の主導権を握っていたのは、初代であるアキコさんの祖母でした。
やり手のお姑さんに仕えながら、従業員である他人とも一緒に暮らす母。
板さんの中には、佐賀県からの集団就職で来ている若者もいました。
どんなに気を遣ってもやり過ぎることはない。
そんな母親の、お嫁さんとしての気配りの塊のような姿を、
アキコさんは近くで見て育ちました。
アキコさんのお父さんは4人兄弟の次男坊。
本来ならお気楽な身分だったところですが、
ほかの3人が全員別の仕事に就き、それぞれ家庭を持って独立したため、
アキコさんのお父さんが三代目に。
とはいえ経営者というより、現場のお店の、誰よりよく働く存在でした。
ちなみに一番下の弟さんは服飾デザイナーとして東京進出をはかっていました。
景気の悪いときは母親であるアキコさんの祖母が資金援助のために、
わざわざ東京まで出向いていました。
昭和45年導入された大型ジェット機
ボーイング747(Wikipediaより)
「遠くにいる息子はやっぱりかわいくて心配だったんでしょうね。
叔父にお金を届ける時には、祖母は必ず私を連れて行ってくれました。
飛行機で行って、東京見物して帰ってくる。
だから私はずいぶん小さいころから飛行機には何度も乗っていました。
一人っ子だったこともあり、店の人たちからも、アキちゃんアキちゃんと、
いつも誰かしら周りにいて可愛がってもらいました。
母の苦労をリアルに知るようになったのは、もう少し大きくなってからでしょうか」
楽しい思い出に彩られた幼少期を過ぎ、
時代は高度成長期の仕上げを迎えようとしていました。
(来月に続きます)
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