【エピソード23】みんな手紙を待っていた時代。
さてさて、聞いた話を形に残すことを仕事にしている
「有限会社シリトリア」(→★)。
普通の人の、普通だけど、みんなに知ってほしい
エピソードをご紹介していきます。
【エピソード23】
手紙を書く機会、めっきり減ったなと感じている人は多いことでしょう。
でも、SNSはもちろん電話やファックスだって、
普及してから実はまだ半世紀も経っていない。
通信手段といえば郵便がすべてだった時代。
あの頃は、みんなから「待ってもらってる」仕事だったねと、
マサユキさんは、郵便局員時代を懐かしく振り返ります。
●朝6時に駅まで郵袋を取りにいく
高校卒業後、マサユキさんが神奈川県のとある市の郵便局に就職したのは昭和33年でした。
郵便局勤務だったお父さんの関係で、高校時代から配達のアルバイトはしていましたが、
正式に郵便局の外務職として採用されたとき、初任給は8,600円。
当時の社会人一年生としてはなかなかの高収入。
その分、外務職、つまり配達部員の仕事はハードでした。
「当時、郵便物はすべて列車輸送でした。
地方から東京に集められる郵便物を、途中の主要駅で下していく。
だから僕も局の最寄駅に朝6時に出勤です。郵袋(ゆうたい)と呼ばれる、
各地域別に車内で仕分けされた袋の中から、自分の局のものを選んで列車から降ろす。
30から50袋ぐらいはあったかなぁ。それをリヤカーに乗せてゴロゴロと局まで持ち帰るわけです」
局に戻ったら自分の担当のエリアの分をもらって、「道順組み立て」をします。
エリア別に大きなテーブルに広げられた地図を見ながら、最も効率的な道順を考えて7時に出発。
3時間ほどで配り終わったら、また局に戻り、再度配達エリアへ。
その間を縫って、速達郵便や小包配達もこなします。交通手段は、入局当初は、すべて自転車でした。
1950年の郵便自転車(郵政博物館サイトより)
「郵便局特製の赤一色の自転車でね。タイヤもガッシリしていてすごく重い。
配達で消耗も激しいから、少し古くなるとすぐ新しくしてくれるんですよ。
でもまだじゅうぶん使えるから、500円で買うことができた。
それを家に持って帰って、ペンキで白く塗り直して乗ったものです」
●天敵は犬、味方は通りがかりの人たち
服装も、当時は外勤であっても、黒っぽいジャケットにエンジのネクタイ、そして黒の革靴。
きちんとした格好で配達に回りました。
通常郵便は、自分のエリアならだいたい場所は頭に入っていますが、速達となるとそうもいかない。
同じような苗字のおうちが集まっている場所だと、さてこの宛名はどこの家か…。
通りがかりの人に手紙を見せると
「ああこの人、〇〇さんちの息子さんだよ。あそこのうち」
などとみんな親切に教えてくれる。
個人情報なんてことをうるさく言わなかったのんびりした時代でした。
昭和の番犬 posted by ©白石准
「やっぱり怖いのは犬。いつ吠えられるかわからないからね。
あと、初めての家で玄関がわからなくて、とりあえず一番近い扉を開けたらお風呂場だったとか(笑)。
速達とか小包は一件ずつ訪問だから、いろんなことがありました。
小包はね、特に盆暮れは大変。
お歳暮って当時は新巻鮭を送る人が多くて、それを自転車の後ろの乗っけて配達するんですよ。
塩が染み出てきちゃって、ほかの郵便物を汚さないかとハラハラしたりね」
●待ってくれるという想いに背中を押されて
公衆電話さえまだ街なかにポツンポツン…の時代です。
配達中、どんなトラブルがあっても自分で解決しなくてはいけない。
自転車がパンクしたら、自分で自転車屋さんを探してパンク修理をする。
もっとすごいアクシデントがあったときでも…。
「そう、自転車で、カーブのところで出合い頭にトラックとぶつかってね。
ところがちょうど病院の真ん前だった(笑)。局には病院の方が電話をしてくれて。
軽傷だったので両親が迎えにきて、その日のうちに退院しました。いろんな意味でラッキーでした」
釜揚げしらす (ふるさと納税ガイドサイトより)
大変な思いをして手紙を運んでくれる、そんな郵便配達の人たちを、
子どもから大人までみんなリスペクトしていました。
基本、どこのおうちでも親切でしたよとマサユキさん。
暑い盛りには冷たいものを出してくれたり、
海が近い場所だったので漁師さんの家に配達に行くと
「さっき獲れたとこだよ。食べて行きなよ」と新鮮な釜揚げシラスを出してくれたり。
いつもみんなが待ってくれている、喜ばれているという思いが、
雨の日も雪の日も、マサユキさんの自転車を元気に前に進めてくれました。(次月に続く)
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