50代、男のメガネは近視と乱視とお手元用 ~ 『女っ気なし』 を、見る。
『女っ気なし』を、見る。
フランスの若手監督、ギヨーム・ブラックの映画『女っ気なし』を観た。
と書いて、僕は映画「観る」とは書かないで、あえて「見る」と書くことが多いなあということに気づく。いや、観るという字は絶対に使わないのだ、ということではないのだが、なぜか映画の場合は「観る」よりも「見る」という字が適切な気がしてしまうのは、なぜだろう。
もしかしたら、映画を興行物として観劇しているのではなく、なんとなく暗闇で見ているからなのだろうか。仕事でコピーを書く場合はちゃんと「映画を観る」と書くのだけれど、個人的には「映画を見る」というのが、僕の気分だ。
と、どうでもいいところに立ち寄っている感じなのだが、これが意外にどうでもいいわけではなくて…。ということをこのフランス人映画監督の『女っ気なし』を見ていて感じたのだった。
この映画は50分強の中編『女っ気なし』と、30分ほどの短編『遭難者』が併映されていて、主人公もロケ場所も同じなので、連作で一本の長編のように見ることが出来る。
この映画に流れているのは「気分」だ。
自分のことをさえないただのデブでハゲだと思っている主人公。そんな主人公のもつ別荘に避暑にやってきた、まだまだ男と恋愛をし続けたいくたびれた体の痛い母親と、その母を見守る若い娘。女と遊びたいだけの主人公の友達。主人公を優しく見つめている近所のおばさん。
登場する人物みんながその時その時の気分に流されていて、誰かの言葉や行動に一喜一憂している。そのくせ、本当はなにがしたいのか、本当は誰のことが好きなのかが、見えていない。
だからこそ、ゆらゆらと場面がうつろい、ゆらゆらとそれぞれの人間関係の距離が動き続ける。そこがとてもおもしろい。まるで、エリック・ロメール作品の主人公を男にしたような感じなのだが、揺れ具合、距離が近づいたり離れたりする具合がもっと現代なのだ。
映画の中盤、古くからさえない主人公を知っている近所のおばさんと主人公が、庭のような場所でテーブルを挟んで会話をしている場面がある。
「ねえ、僕のことどう思う?」
「誠実だよ。いい子だわよ」
「見た目とかはどう。本当のことを言って」
「かわいいわよ」
「ほんとに?」
「ほんとよ。髪型はもうちょっとどうにかした方がいいけどね」
「こんなに太ってるし」
「そんなの関係ないのよ。私だって若い頃からこのガタイだけど、旦那とちゃんと知り合ったのよ」
「どこで?」
「海で」
「どんなふうに」
「普通よ。『遊びに行こうか』『いいわ』みたいな感じ」
そこまで話すと、二人はなんだか、ふっと微笑みあう。
一度見ただけなので、ちょっと会話とか場面設定は間違っているかもしれないけれど、だいたいこんな感じ。この場面を見るだけで、互いが互いを思う気持ちが近づいたり離れたりする。その初々しいまでの空気がひりひりと伝わってきて、泣きそうになる。
結局はそこなんだろうな、と思う。紋切り型に「好きだ」と言っても伝わらない自分たちの気持ちを、どう伝えようとするのか。それが何かを作る、ということなのだろう、と思う。
映画を「観る」とは書けずに、「見る」と書いてしまう自分の気持ちがどこにあるのか、ということを忘れなければ、ものを作り続けることはできるのだ、と『女っ気なし』という映画を見ていて、僕は強く感じたのだった。
※ 映画「女っ気なし」の公式ホームページ http://sylvain-movie.com/
植松眞人(うえまつまさと) 1962年生まれ。A型さそり座。 兵庫県生まれ。映画の専門学校を出て、なぜかコピーライターに。 現在、オフィス★イサナのクリエイティブディレクター、東京・大阪のビジュアルアーツ専門学校で非常勤講師。ヨメと娘と息子と猫のマロンと東京神楽坂で暮らしてます。
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