「しきたり」通りに生きていければなあと思う日々。
『屋根の上のバイオリン弾き』という映画を見たのは確か中学生の頃。当時、友達の間で映画を見ることが流行っていて、テレビで映画を見まくっていた。
映画と言っても洋画ばかりで、50年代の名作から最新作のスペクタクルまで、それこそもう手当たり次第だった。
映画はこんなに楽しいのか。映画はこんなに大嘘をつくのか。映画はこんなにエロエロなのか。そんなことを思いながら夢中で映画を見ていた。お金がないからテレビで放送されるものばかりだけれど。
そんな中に『屋根の上のバイオリン弾き』があった。ロシアの圧政によって村を追われるユダヤ教徒の話だった。そのオープニングは村人たち総動員で歌い踊られる『しきたり(トラディション)』というナンバーで始まる。
トラディショ~ン、トラディション!
みんなが声を合わせて、しきたりだ!しきたりだ!と叫ぶ。そこへ、新しい若い者たちによって、最近はしきたりが軽んじられている、という詩が続く。そして、主人公テビエが、「いやいかん、正しいとか正しくないとかじゃない。しきたりなんだ!」とナンバーを締めくくる。
『夜の大捜査線』などを撮ったノーマン・ジュイソン監督がなぜこの映画を撮るのだろうと不思議だった。アメリカン・ニューシネマが興隆し、古くさい価値観をつぶそうとしたときに、なぜ、この郷愁をさそうようなテーマなのだろうと。
でも、映画はテビエの若い娘たちがそれぞれに古い枠組みを越えながら自分たちの未来をつかみ取ろうともがき苦しむ様を時にユーモアを交えて見せてくれる。
そして、テビエが徐々にそんな「しきたり」を破り、自由を謳歌する若者たちを認め始めた頃、ロシアの圧政という理不尽に村人が追われていく様を見せつけて終わる。つまりこの映画は「しきたり」に縛られずに生きていこう。いつ、理不尽な壁が前に立ちはだかるのかもしれない。そんなときに脆くも崩れるような「しきたり」にしがみつかなくてもいいじゃないか。と言っているかのようだった。
テビエが夕暮れの中、屋根の上でずっとバイオリンを弾いていたバイオリン弾きを従えて、村を後にする場面をふと思いだしたのは、父が亡くなり喪主という立場に立った時のことだった。
なにしろ、お通夜や葬儀の手順や常識がわからない。葬儀屋さんは懇切丁寧に教えてくれるのだけれど、親戚筋からは「葬儀屋のいいなりになると、お金をふんだくられるだけだ」というような情報が流れてくる。
そのくせ、それならと「お花はこの程度でいいです」と折り合いをつけると「こんな花じゃ、お父ちゃんが泣いてるぞ」と難癖をつけてくる。
ああ、それならネットで調べようと、納骨のことを調べると、ネットでは「初七日に納骨するのが正しい」という人や「1年くらいそばに置いておく」という人までいる。こっちが知りたいのは幅ではなく、どれが一番常識的か、ということだ。
つまり、僕はしきたりを欲していたのである。僕が何かを決めるのではなく、「しきたり」として、どうするのが正しいのかを教えてほしかったのである。
ネット上には様々な「しきたり」が、あちらこちらに散在していた。でも、僕が知りたかった「常識ど真ん中のしきたり」はなかなか知り得なかった。というか、幅広すぎて、自分でも「これが常識だ」と決めることができなかったのである。
納骨に関しては、あれこれ考え込むことが嫌だったので、結局初七日に納骨してしまった。すると、あちらこちらから、「あれは早すぎたのではないか」「もうちょっと、そばに置いて死を悼む時間をつくるべきだった」という声が洩れ聞こえてきた。
最初は「なんだと!」と思ったけれど、どうせ自分で決めなければならないことだと思い直した。誰になにを言われても「いや、あれはあれでよかったんだ」と言い張った。まあ、言い張らなくてもよかった気はするのだが、言い張らないと負けそうだったし。
そんなこんなのある日、母親が妙なことをいいだした。「お墓の中で、お父ちゃんの骨が湿気ている」とかなんとか。何のことだと思ったのだが、念のため、法要があったときに納骨した墓の下の穴蔵を見てもらうことにした。
不器用な住職さんが、せっかくの墓石の角を別の石にぶつけて欠けさせながら、納骨した場所を見てくれた。僕も見た。たしかに、少し水がたまっていて、しかも、骨壺が倒れていた。
いやなんだか、嫌な予感はしたんだよ。この不器用な住職さん。やることなすこと鈍くさくて、骨壺を納骨するときに、ちょいと斜めに入れてるなあっと思ったんだ。案の定倒れていやがったか。というか、これはうちのオヤジのいたずらなんじゃないのか、と思えないこともない。
まあ、倒れていたことは事実なので、なんだか、しきたり知らずでここまで来たことが否定されたような気になったのは確かだ。同時に、しきたり通りに生きるなんてことは、遠い昔に望めない世の中になっているのだということを思い知らされた気持ちになったのだった。
「しきたり」というのは難しい。たとえば、いくら僕が「しきたりがあればいいのに」と思っていても、「それなら、国が一定のガイドラインを作りましょう」なんて甲高い声で安倍首相が言い出したら「だれが言うことを聞くかよ」と思うのだろうし。だけど、ないならないで本当に困ってしまう。本当に困るよ。
「しきたり」を大切に守るか、「しきたり」なんてどっちでもいいと開き直るか。まだ、どちらかに振り切ってしまうだけ、気持ちが据わっていないんだよね。
植松さんとデザイナーのヤブウチさんがラインスタンプを作りました。
ネコのマロンとは?→★
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植松眞人(うえまつまさと) 1962年生まれ。A型さそり座。 兵庫県生まれ。映画の専門学校を出て、なぜかコピーライターに。 現在、神楽坂にあるオフィス★イサナのクリエイティブディレクター、東京・大阪のビジュアルアーツ専門学校で非常勤講師。ヨメと娘と息子と猫のマロンと東京の千駄木で暮らしてます。
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nao
こんばんは。
お葬式といえば、伊丹十三監督の「お葬式」を観たとき
山崎努と宮本信子がお葬式の前にビデオでマナーを練習していて
私はまだ若かったのであんな大人になってもマナーが分からないものなのかと思いました。
しかし私自身お葬式には随分年齢がいくまで縁がなく
お焼香を初めてしたときには周りをキョロキョロ見てしまいました、恥ずかしい。。
いろんなことがわからないままですが
ちゃんとやるからちゃんとしたこと教えてよって気持ちはあります。
uematsu Post author
naoさん
映画『お葬式』を見た時には、
「ああ、将来自分の親が亡くなったときには、こんな風にビデオみるかも」
と思ったことをnaoさんのコメントを読んで思い出しました。
正解が一つならいいんですが、
あれもあり、これもあり、こうしたって別に間違いじゃない、
ということになると、あちこちから不平不満が聞こえてきて、
「亡くなった人を悼めばいいじゃないか」と思ったりしますね。
僕も「やるからにはちゃんとやりたい」と思います(笑)