映像を作りたい、という言葉。
大阪の映画の学校でゼミを持っている。映像作家ゼミという名前のゼミだが、ほとんどの学生が高校を卒業してすぐに入学し、たった1年だけ基本を習ってゼミを選択するので、「私は映像作家なのだ」とか「映像作家になるのだ」と意気込んでいるような学生は皆無だ。
ほとんどが、「昨年度の映像作家ゼミの先輩の作品が好きだったから」とか「ミュージックビデオを一人で作りたいから」とか、なかには「グループ制作が苦手だから」という学生もいたりする。
映画や映像作品が大好きで、散々見たあげくに「自分でもつくりたい」と思っているような学生はほとんどいない。なんなら、映画なんて観ていない学生がほとんどだ。たまに、映画に心酔しているような学生もいるが、そんな学生も数人のリスペクトする映画監督の作品に振り回されて、なにも見えてはいない。
しかし、ある意味、少しややこしい学生が集まってくるゼミだからこそ、ごく希にとても面白い発想に出会えたり、驚くほど必死に制作に取り組む前向きな意思に出会えることがある。
昨年の3月の卒業生した学生は、前期作品でぴあフィルムフェスティバルの審査員特別賞を受賞し、卒業制作でも優秀賞を受賞した。いま、仕事をしながら、次に映画を撮る機会をうかがいながらシナリオに専念している、はずだった。
いつ、「シナリオが出来ました」と連絡があるのだろうかと思っていたら、いきなり「ミュージックビデオを撮ることになりました!」と喜び勇んだメッセージが飛び込んできた。当然のことながら、僕は怒り心頭だ。個人的にミュージックビデオは嫌いではない。好きなアーティストのミュージックビデオを購入することだってある。ただ、やはりミュージックビデオはミュージックビデオなのだ。
それを生業にしていたり、誇りをもって制作している人もいるので、誤解されたくはないのだが、ミュージックビデオは、やはり音楽が主体なのである。映像作家になった者が、音楽にインスパイアされて、映画をつくる、というのとは違う。どこまでも音楽が主役で、その音楽への理解を深めたり、より強く音楽を印象づけるためのものだ。映像作家たるもの、音楽と拮抗するかまたはそれを凌駕する映像をつくるしかない。しかし、それでも映画を一からつくる作業とそれはまったく違うベクトルなのだ。それは、一本でも映画を作ったことのある人間には明白である。
しかし、ときどき、映画を作るはずの人間がミュージックビデオに逃げる、ということはある。そう、僕から言わせればそれは逃げることに他ならない。必死でストーリーを書き、シナリオに起こし、人を集め、という辛い作業の先にしか、映像作家としての醍醐味はやってこない。
その卒業生が「なぜ、ミュージックビデオなの?映画を作りたかったんじゃないの?」という僕からの問いかけに「映像がやりたかったんです」と返信してきた。小説が書きたい。ノンフィクションが書きたい。そう言っていた書き手の卵が、いつのまにかSNS専門の書き手として頭角を現したり、ネットニュースの書き手として荒稼ぎしている例は多い。つまり、それと同じ、手っ取り早く「映画を撮っていたときの充実感を手に入れよう」と考えた結果なのだ。これが選択肢の多い時代の悲劇だと思う。そして、それに気付かない者の愚かさだと思う。
正直、一度、他人からの甘い誘いに乗ってしまった奴が、再度、苦しい作業の果てにある映画作りに戻って来れる気がしない。これがプロとして仕事をしている間に、キャリアとして別の仕事が入ってきているなら話は別だ。しかし、仕事とは別に自主的にそれに手を出したということは、おごり高ぶっているか、映像制作を舐めているとしか僕には思えないのだった。
おそらく「なんか楽しそうなので、ミュージックビデオ撮らない?という知り合いからの話を受けてしまいました」ということなら、「あほか」と笑って済ませられたのかもしれない。しかし、「映像がやりたかったんです」という言葉には、なにか許せない嘘や逃げが含まれているという確信があった。
山本太郎が言うように、いまの世の中、負け始めたらずっと負け続けるのかもしれない。地獄のような日々の中で、人はどう生きていけばいいのか分からなくなっているのかもしれない。そして、その大きな原因は安倍晋三や内閣府にあるのは事実だろう。でも、もっと深刻なのは、ものづくりに対するリスペクトのなさと、ものづくりを目指す若い奴らの覚悟のなさなのではないだろうか。
久しぶりにオッサンらしく若い奴にむかついたお話でした。
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植松眞人(うえまつまさと) 1962年生まれ。A型さそり座。 兵庫県生まれ。映画の専門学校を出て、なぜかコピーライターに。 現在は、東京・大阪のビジュアルアーツ専門学校で非常勤講師も務める。ヨメと娘と息子と猫のマロンと東京の千駄木で暮らしてます。サイト:オフィス★イサナ
★これまでの植松さんの記事は、こちらからどうぞ。
アメちゃん
そうなんですよねぇ。
手っ取り早く作家やライター等の充実感を手に入れられるSNS市場が
ものづくりをする人へのリスペクトをなくしましたよね。
そしてそれが、自分で自分の首を絞めていることに気づいていないという。
「今度、記事書いてください。タダで…」って
平気で依頼してくるところもあるらしいです。
私もクリエイティブを生業にしていますが、最近つくづく
ゼロからものを作り上げることの大変さを分ってほしい…と思いますね。
まぁ、文化、芸術どころか、本すら読んでなさそうな本邦2トップですし
大阪も、文楽やクラシックより吉本と電飾が好きな首長らですから
ものづくりへのリスペクトなんてなくなりますわねェ…。
uematsu Post author
アメちゃんさん
おっしゃる通りですね。
世界レベルの中で特に日本のレベルが下がっている気がします。
カズやん
僕も大学の映画サークルに入っていたのですが、
映像を志す若者は二種類いると、素人目に思います。
シーン優先型と、物語優先型です。
作りたい物語が先にある人は、多くの手間をかけて映画を完成させますが、
単なる映画ファン、格好いいショット、シーンを実現したい人は、そもそも動機が異なるので映画にすることが難しいです。
シーン優先の人にとっては、MVはちょうどいいのかも知れません。
そうしたシーン優先の感覚が、「映像がやりたかった」なのかもしれないと思いました。
植松さんは普段若者と接して、彼らの映像制作の動機はどの辺にあると感じてらっしゃいますか?
uematsu Post author
カズやんさん
その通りですね。
シーン優先型でも業界で充分やっていけるのですが、
その学生とは二年間じっくり付き合っていたので、
なんとなく「逃げ」でMVをやっているという臭いがしたんです(笑)。
散々、作品の話をして、そろそろシナリオが上がってくるのかというタイミングだったので、
そこは、どれだけ苦しくても、他をおいてでもシナリオを書いて欲しかったという感じですね。
だからこそ、本人も「バレた!」という感じで慌てふためいていたんだと思います。
ただ、MVだって本気で仕事にしようとすると、
日々、それだけを考え続けなければならないわけで、
物語優先のまだまだアマチュアな映画作家が、
半分遊びで手がけるようなものではないような気もして。
最近の若者の制作動機としては、本当に様々ですね。
それこそ、映画をたくさん観て、自分も映画監督になりたい、という学生もいます。
「やりたいことはないのか」と高校の先生に聞かれ、「テレビ見るのが好きだから映像制作」と成り行きで入学する学生もいます。
あと、「ジャニーズの●●と仕事がしたい」という本当にミーハーな理由で始める学生も。
動機はどうあれ、つくる作業を覚えるだけではなく、
単なる自分の体験が、人に見せる作品に昇華する瞬間に立ち会えた学生は、
やっぱり面白いものを作るし、業界でも良い仕事をしている気がします。