<第9回>夫の人となりを紹介しようとするとき、ある瞬間からどうでもよくなる。
そして、はらぷが書いたことについて。
夫の何を語っても、それはケニー(夫)の一瞬でしかなく、連綿とあるものの一部としても事足りない。はらぷが言うように、それは、夫の利点や本当のところは自分しかわからない、というのとは違います。
そういう心理は親兄弟、友人も同じく発動してもいいはずなのに、夫に関してある意味、格別なのが自分でもよくわからない。
たとえば、私はケニーが人に嫌われようとも、誤解されようとも、たぶん平気です。不快かもしれませんが、けっこう早い段階で、まあいいかどうだって、にしちゃいます。今までそうだった。
自分の友人知人に対しても、途中まではわりと夫の人となりを紹介しようとするのですが(その方が話が弾むし)、なぜか決まって「ある瞬間」からどうでもよくなる。試合放棄(試合なのか)。
その離脱の心理は、愛情に裏打ちされた「私さえ理解していれば」とは違います。あ、全然違いますね。なんだかその「ある瞬間」って、自分にとって不遜な領域になりそうというか、下手すりゃ話を都合よく盛っちゃいそうな危険ゾーンに達する瞬間に近い気がする。そしてハッとしてふりだしに戻る。夫と自分が平和であればそれでいいや、に。
この「平和」は「幸せ」に近いものと解釈されがちだし、されるってことはそれが一般的には正なのかもしれませんが、自分の「平和」と親和性が高いのは「幸せ」よりもっと身も蓋もない「波風が立たない」「平穏無事」ということだったりします。
夫の話を聞いて「自分はそうは思わない」と思っても、私はあんまりその気持ちを表明しないかもしれません。聞き流すとかめんどくさいとかいうより、言う必要性をあまり感じない。あ、違うんだな、でも別にまあいいか、違う人間だものな、と。ものすごく根本的なことに違和感がなければ、そのへんはあいまいにしてる感じ。
…あれ?どんどん自分の事なかれ主義、腹黒さが浮き彫りになってる気がする。
でも一方で、夫が快適かどうか、楽しそうにしているかどうか、にすごく心を砕く自分もいて、平穏無事を求めつつ、相手には幸せになってもらいたい、みたいな、矛盾してるんだかしてないんだか、臆病なのか不遜なのか、よくわからない日常があります。そして、そのわからなさにもはや疑問もない。
とにもかくにも、そんなあれこれから導き出されるのは明らかに共依存です。狭い世界で平穏無事に暮らしたい、の行き着く先は必然的にそうなると思います。視野狭窄症だから。
以前、友だちが「うちは共依存だからなんとかしなくちゃ」と言っていて、とてもうろたえました。やっぱりなんとかしなくちゃいけないことなのかなって。どっちかが死んだらどうしようってことになるのか、と。
なるんだろうなあ。