デジタルの時代を乗り越えて
なぜ、誰も彼もが希望を持てない時代になってしまったのか。若い人と話していても、年寄りと話していても、みんなが諦めた顔をしていて、なにも楽しくない。楽しくない人と話していても新鮮さはないので、必然的に人に会うのも邪魔くさくなってしまう。もう、諦めの連鎖のような雰囲気が漂っている。
なんでこうなるのか。いまより不景気な時代はあったはずだし、今よりも不条理な時代もあったはずだけれど、何だかいまの雰囲気はなかなか根深いものがあるような気がする。
たとえば、これまでの陰鬱とした時代と、鬱陶しさ満載の今と、どこに違いがあるのかと考えると、何となくだけれど、技術的に発展しきった先の陰鬱、と言う気がしてしまう。この先、もっと技術が発展すればこの苦痛は無くなるのではないか、という希望が持てない。そんな感覚が諦めにつながっているのかもしれない。
まあ、僕は社会学者でも何でもないので、そんな気がするだけなんだけれども。あとは、デジタルのせいなのかなあ。東京の老舗スタジオ『音響ハウス』のドキュメンタリー映画で松任谷正隆がこんなことを言っていた。「このスタジオで 初めてデジタルの録音機に触れた時の衝撃は忘れない。チャンネル数が何十倍何百倍に増えても、アナログで作ったものを移し替えるだけなので何も変わらない。そう思っていたのに、実際にやってみると音がスカスカになった。アナログで綺麗に重箱に詰めた音楽がペラペラの音楽になっちゃった」と。
そう言えば、この10年でいろんなシステムがアナログからデジタルへとシフトした。つまり、録音スタジオと同じで処理速度や複雑なシステムへの乗り換えやデータ同士の関連付けが、信じられないくらいの物量で可能になった。
これが日常生活でも同じように始まってしまい、デジタルを使いこなせるの者と使いこなせない者とでは、日常の風景までいっぺんしたような気がする。SNSなんてやってたら、普通に電車に乗り合わせてる人たちが、みんなぶつぶつ呟いているように見えてしまう。なんて、気持ち悪い風景だろう。でも、スマホなんて持ったこともない人にとっては、これまでと変わらない風景が以前と地続きで繋がっている。
そんなことを考えていると、デジタルは浸透する時間が早すぎたのかもしれない。マイナンバーカードと同じで、導入する側は今まで通りのつもりでも、動き始めたデジタルツールは使う側の都合なんて容赦してくれないんじゃないかなあ、と言う気がするのである。
でも、これを乗り越えないとね。次の楽しいことを経験できないから。
植松さんのウェブサイトはこちらです。お問合せやご依頼は下記からどうぞ。
植松事務所
植松雅登(うえまつまさと): 1962年生。映画学校を卒業して映像業界で仕事をした後、なぜか広告業界へ。制作会社を経営しながら映画学校の講師などを経験。現在はフリーランスのコピーライター、クリエイティブディレクターとして、コピーライティング、ネーミングやブランディングの開発、映像制作などを行っています。