パリのオリンピックを見て思う、新しい戦い方
パリでオリンピックが開かれている。パリで開催されるのは100年ぶりだそうだ。僕はもともとスポーツに疎い。オリンピックも話題になっている競技をニュースで見るくらいで、あまり熱心に応援したり見守ったりしたことがない。
それでも、開会式は毎回気になって、録画でも見るようにしている。北京大会は「絶対に負けられない」という国の威信のようなものを感じけれど、前回の東京大会は正直あまり感じるところがなかった。
というわけで、パリ大会の開会式である。僕はおもしろいなあと思いながら見ていた。セーヌ川に浮かべられた船の上から選手団が手を振る風景は、ああパリらしいなあ、と思ったし、エッフェル塔を背にしたメタルホースが走ってきたときには、そのキッチュさにもフランスらしさを感じた。
でも、本当はどうなんだろう。もう入場する選手団を見ていても、肌の色や体格だけで国を判別しにくくなっている。紅白にわかれて歌合戦をする番組が「ボーダレス」をテーマに掲げる時代だもの、その国らしさなんて、逆にあってはいけないのかもしれない。その国らしさがなければ、隣の国との国境も気にならなくなるかもしれないし、トランプはメキシコとの国境に壁を創らなくてもいいのかもしれない。ジョン・レノンの「イマジン」がこんなに歌い継がれているのも、みんながボーダレスで平等で差別がない時代を望んでいるからだろう。
けれど、やっぱり阿部詩が負けると落胆するし、彼女の絶叫のような泣き声を聞いていると、「勝たせてやりたかった」と思う。するとどうしても選手本人の腹の底のほうに、普段は注意深く口にしないように気をつけている「この国のために」というような感覚が姿を現しているような気がする。
紅白にわかれて歌で戦をするのはもう無理だ。国と国に分かれてメダルの取り合いをするのも無理だ。だけど、人は本能として戦ったり、戦っている人を見るのが好きなんだろう。そう考えると、ボーダレスとかダイバーシティとかジェンダーとかを声高に叫んでいる今の時代は、新しい戦い方を探している時代なんだろうと思う。たくさんの人たちが、それこそ老いも若きも男も女も、いや、LもGもBもTも、あとまだまだこれからたくさん現れそうな人たちが、SNSや学校や職場で、新しい戦い方を模索している。
だって、ぼんやりしていると自分がやられちゃうんだから。そして、そんな模索の過程で、驚くほど簡単に敵を作り出して、その敵が本物の敵かどうか見極める前に、相手が立ち上がれなくなるほどにぶちのめす。そりゃそうだ。やらないとやられる。
本当は穏やかに、みんな違ってみんないい、という世界を望んでいるだけなのに、知らず知らず、あれが言えなくなるんなら、これなら言っていいのか、という世界が来てしまった。こんなふうに見えても特別扱いしないで欲しかっただけなのに、こんなふうがいいなら、あんなふうにしてもいいんだよね、という時代が来てしまって、みんながどうしていいのかわからなくなっている感じ。
さあ、どうしよう。声の大きな奴にとって、ものすごく都合のいい時代がやってきた気がする。さあ、どうしよう。世論をつくることに長けた奴と、世論にのっかることが得意な奴に都合のいい時代だ。さあ、どうしよう。いったん、逃げようか。それとも、じっとTHE BLUE HEARTSを聞きながら拳だけを握っていようか。
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植松事務所
植松雅登(うえまつまさと): 1962年生。映画学校を卒業して映像業界で仕事をした後、なぜか広告業界へ。制作会社を経営しながら映画学校の講師などを経験。現在はフリーランスのコピーライター、クリエイティブディレクターとして、コピーライティング、ネーミングやブランディングの開発、映像制作などを行っています。