絶叫する箱
一緒に暮らしているねこのスマは、さいきん毛づくろいをしすぎて、お腹がすっかりはげてしまった。しばらく様子を見ていたのだが、そのうち足の付け根の部分が擦り傷のようになってきて、それが気になるとみえて、またしょっちゅう舐める。そこで先日、ねこの病院に連れていった。
数年前に手術をし、定期的に通院しているティーちゃんとちがい、スマは頑健なたちで、病院通いには慣れていない。ゆえに、油断していて、なんなく捕まる。
大きな洗濯ネットに入れられてもまだピンとこないふうのスマを抱いて、通院用のバスケットに詰める。3キロのティーちゃんにはあまるほどのバスケットも、スマにはぎゅうぎゅうである。文字通り、「詰める」という表現がふさわしい。
ふたを閉めると、はじめて大きなためいきをつき、「わーお」と心細くないた。
他愛もない、かわいいやつ…。
ところが、玄関をあけ、外の空気と音に触れた瞬間、バスケットの中のけものは、「ギョワオウ!!!」と絶叫した。
「ほーら、おいでなすった!」と私は思う。
スマにとっての非常事態のスイッチは、洗濯ネットでも、バスケットでもなく、どういうわけか外気なのだ。時すでに遅しである。
駅のそばにあるねこの病院までは、約15分。
自転車の荷台にバスケットを乗せて、押して歩いていく。
この15分間、スマは驚くべきスタミナと、時報を知らせるがごとき正確さで、「ギョワオウ!!!」と叫び続ける。
東京郊外の、平日の昼下がり。病院までの道はこの町にしては大きな通りで、道沿いにはバス停があり、スーパーや公民館がある。天気がいい。
抜けるような青空の下、スマの絶叫とともに街道を歩いていく。
バスケットに手を置いていると、音が振動となって伝わってくる。
ギョワオウ!!!
ギョワオウ!!!
ギョワオウ!!!
「スーマーちゃんはげーんーき、スーマーちゃんはうーるーさい」
と節をつけながら私も歩く。
○
前を歩いていたおばあさんは、私が後ろから近づいていくと、ピクッと体をはねあげ、立ち止まって空を見上げて、あたりを見回した。そして鳴り物入りのわたしが脇を通り過ぎるさい、バスケットを指差して「ねこです」という仕草をすると、
「ねこ!!!」
といって手を打ち鳴らして破顔した。
さっきまで前かがみで、思いつめたみたいにまじめに歩いていたのに。
○
信号を待っていると、小学生の男の子が絶叫するバスケットを凝視していた。
「ねこだよ」と言うと、
「へッ」と言ってのぞきこみ、よく見えないのに「かわいい!」といってお母さんのところに戻っていった。
○
スーパー前のバス停では、4人のおばあさんがバスを待っていた。私が近づくずいぶん前から、4人はまるで異変を察知したプレーリードッグのように鼻をぴくぴくさせて(みなさんマスクなので比喩です)、謎の絶叫がどこからくるのか見回していた。
そしてついに荷台のバスケットに気がつくと、
「ねこだよ!!」
「あらやだ、ねこだわ!」
「いやなんだよ、ねーーえ!!」
「がんばんな!」
と見えないねこの入った絶叫バスケットを激励し、見送ってくれた。
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公民館の前で人待ち顔だったおばあさんは、絶叫の出どころに気づくなり
「ねこ!!!」と叫んで駆け寄ってきて、
「何柄?」と聞いた。
「白キジです。」と答えると、満足そうにして、
「病院か。そこの○○?」
と言ってしばらくバスケットを覗き込み、「ギョワオウ!!」を数回確認すると、
「よーうないとるわ!!!」
と言った。
病院に着いて、このスマの凱旋を報告すると、先生は喜んで、
「スマちゃんは頭蓋骨も体も大きいもん、よく響くよねえ!」と言った。
スマは頭蓋骨が大きいから、大きな声がでるのか。えらい!
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診察の結果は、膀胱炎や結石の心配はないようだったので、ストレスかもしれない、ということだった。
環境の変化、同居猫との関係、のら猫が庭に来る、何か心当たりはありますか?と聞かれ、どれも心当たりがありすぎる。
しかし、今始まったことといえば、家の構成員が、ふたりと2匹だったのが、ひとりと2匹に変わったことだ。
スマはわたしべったりなので、そうオットの不在を感じているようにもみえなかったが、今まで周囲にあった匂いや声、質量がひとりぶん減った結果、家の中は、明らかに静かだ。
わたしは、いままでついぞ見なかったテレビを夜つけるようになったし、スマが感じているのはわたしの変化なのかもしれない。
傷になってしまった部分をなおす飲み薬のほかに、心が安定するというサプリを試しにもらった。
引っ越し前後などに、落ち着かないねこに処方されたりするものらしい。
ねこの、精神安定サプリかあ。長生きはしてみるもんだ。
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待合室でも、絶叫は響き渡る。
小さな男の子が、叫び続けるバスケットを見て「…カエル?」とお母さんに聞いていた。
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今日行き合った人々は、家に帰ってあの絶叫のことを思い出し、あるいは誰かに話したり、ひとりで笑ったりするだろうか。
その人たちの全員、だれひとりほんとうにはスマの姿を知らなくて、見たのは、絶叫し続けるバスケットだけ。でも、みんな「ねこ」を見たと記憶しているだろう。ゆかい。
彼らの見た「ねこ」の姿は、どんなだろうか。
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by はらぷ
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※「なんかすごい。」は、毎月第3木曜の更新です。
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