◆◇やっかみかもしれませんが…◆◇ 第2回 おしゃれって?
おしゃれがわからない。特に「自己表現」と枕詞を付けたくなるタイプのおしゃれがわからない。
洋服を着ることそのものが自己表現でしょう、と言われれば、確かにそうなのだけれど、こと自分に関しては、おしゃれに「自己表現」という言葉がそぐわない。
おしゃれに興味や関心がないわけじゃないつもりなのだ。ファッション雑誌をめくるのはけっこう好きだし、このサイトのおしゃれ関係の連載もだいたいは読んでいる。
おしゃれ関連記事の連載こそ遠慮してやってないが(←ここはプッと吹くところです。服だけに。)手持ちの服と相性が良くて、着ていて心地よくて着疲れしない、できれば手入れがラクで、あわよくば清潔感があって、なんとなれば体型がスッキリして見える…服や靴やバッグを選ぶことには、こう見えてけっこう真剣である。でもそれは、自己表現というより自己完結っぽい。
人に、「そのシャツ、いいね」と言われれば、そりゃあ悪い気はしない。けれど、別れたらすぐに忘れてくれていい。印象に残らないぐらいがいいのだ。「さっき帰った月亭さん、どんなかっこうだったっけ?」「覚えてない」が理想である。
古くからの友人のコマツさんとは、そのへんのウマが合う。ずいぶん前だが、なにげなく「別れたあと、何を着てたか思い出せない人の洋服って自分の中ではセンスがいいんだよね。思い出せないんだけどさ(笑)」と言ったら、彼女はソッコーで「すごくわかる」と言ってくれた。その後、同じようなことを言っても、同じような反応をしてくれる人はいない。困った顔をされるのがオチだ。
その人の雰囲気に合った、らしい装いであればあるほど、たとえ派手な色味でも斬新なデザインでも、わたしはその人自身の印象しか残らない。着ている人と洋服との記憶が一体化してしまうらしい。
突然、ぶち上げるが、おしゃれに対してのスタンスには二種類あると思うのだ。ファッションやメイクやヘアスタイルでどう自分を表現するかを肝とする主張系と、おしゃれ全般を自分自身に溶け込ませようすることが、ある種の自己表現とも言える埋没系。
両者は二択でも対極でもないが、コマツさんと私はかなり埋没系寄りなのだと思う。そして、埋没系はまず、おしゃれな人扱いされない。
それは別にいい。わかりやすい表現をしないのはこっちなのだから、伝わらなくて当然なんだろう。ただし、主張系前提の同調圧力を発動されるとモヤモヤする。他の同調圧力には敏感なのに、ことおしゃれだと無神経な人がけっこう多い。困惑した顔をすると、「おしゃれの話が好きじゃないのね」と咀嚼される。違う。興味の方向が異なるだけだ。
それと、ずっと主張系のおしゃれだったと思われる人が、加齢と共にいろいろな意味でおしゃれに対するスタンスが変わったらしく、でもおしゃれそのものの固定観念は更新されず、ため息などをつきつつ「わたしなんてもう」的に土俵を降りたように埋没系寄りの言動をするようになるのは、なんだかとてもつまらない。
そういう人は言う、「全然洋服を買わなくなった」「ラクな服がイチバンいいわよね」「地味になった」「同じような服ばっかり着ちゃう」etc…。
だいたい、昔から埋没系のこっちに言わせれば、主張系が第一線を退いて降りてくるところが埋没系じゃないからね、である。
そして、埋没系だって、ずっと同じ場所にいるわけじゃないのである。先日わたしはTwitterにこんなツイートをあげた。
体調が悪い時より良い時は若干でも、姿勢が良く、眉間のしわやホウレイ線が薄く、口角も上がり、肌や髪も良好で、表情と感情が明るく、フットワーク軽く、頭も動き…気味になるわけだから、自分にとっての「おしゃれ」の投資の最優先は、どんな洋服を着るとかメイクより、体調維持、なわけです。はい。
自分のおしゃれへの「投資」は、洋服そのものやエステやヘアなどの美容方面ではなく、下着の素材や漢方薬やヨガや体幹トレーニングや食材の選び方という健康方面に向かっている。これはもうしょうがない。そこにエクスキューズはない。
このように、おしゃれ界隈のどうでもいいようなことをだらだらずるずる考えると、主張系にしろ埋没系にしろ、結局はおしゃれができる、しようと思える、心身あってのモノダネなのだなあと思うわけである。落としどころが平凡過ぎるけれど。
ちなみに、今回、この記事を書いているときにずっと念頭に浮かんでいたのは、なぜかルビンの壺だった。
by 月亭つまみ
木曜日のこの枠のラインナップ
第1木曜日 まゆぽさんの【あの頃アーカイブ】
第2木曜日 つまみの【帰って来たゾロメ女の逆襲 月刊 切実本屋】
第3木曜日 はらぷさんの【なんかすごい。】
第4木曜日 つまみの【帰って来たゾロメ女の逆襲 やっかみかもしれませんが…】
まゆぽさんとの掛け合いブログです。→→「チチカカ湖でひと泳ぎ」
凜
つまみさんこんにちは。
「別れた後何を着ていたか思い出せない人の洋服って自分の中ではセンスいい」
すっごくよくわかりますー!
7歳年上の友人がまさにそうです。毎回会うたびにベージュやカーキやネイビーやベーシックなカラーでデザインもオーソドックスな装いなのに、エレガントでとても彼女にしっくりきていて「はっ今日もオシャレ!」と思う。のに、別れると何着てたかほとんど思い出せないのですよ。それくらい自然に彼女に溶け込んでるってことですけど、それって知性のなせるワザなんだろうなあー。
著名人でいうとDeNAの南場智子さんも私の中ではめっちゃセンスのいい方です。1週間密着みたいな番組があって見てたのですが、毎日の洋服のセンスがお見事でした。地味でも派手でもなく、適度な華やぎと知性が感じられて素敵でした。
でもつまみさんのおっしゃるとおり、健康な体という土台がいちばん!地味に毎日筋トレとストレッチ(お手軽なやつ)をし、ギックリ腰の再発を恐れつつストレッチポールでゴロゴロしてます(^^♪
爽子
「おしゃれ」について、よくわかってないのは、わたしも同じだわ~。
自分の「好き」の追求に、個人的には着地した感じ。
最近いろいろなものの土俵をおりまくってますけれど、自分の快適にしか
心が動かなくなりました。
決して世捨て人系の方向に行くつもりはないのですが。
いや、待てよ。
もっと年老いて、元気もりもりなら、街角「すなっぷ」されるような
やらかし系のおちゃめな「自己表現」してみたい。
わたしは、どっちなんだろう。
やっぱ「主張系」でしょうか。。。
アースカラーはあんまり・・・だし。
それにしても、ルビンの壺は割れたの?
反転にみえるの?ああ。ようわからん。。。
わからんことのループのリンクだったのかっ!
アメちゃん
おはようございます。
その人とおしゃべりをした時、物の見方や分析が面白かったり
その人なりの哲学のようなものを持ってるなぁと感じると
その人の中身がぐぅんと表に出てくるので
どんなファッションしてたとか、オシャレだったかとか
どうでもよくなるんでしょうね。
だから、あまり印象に残らないと。
私は仕事柄、新しいことに敏感そうだったり
それなりにセンスがいいと見られることは重要ポイントなので
私にとって、ファッションは自己表現の一つでもあるんですけど
気持ちは埋没させたい派なので
あまりオシャレを頑張るのはニガテですねぇ。
埋没させつつ、
「この人、何してる人だろう?」と、なんかちょっと気になる、
っていうのがいいなぁと思います。
年配の映画監督みたいな感じ?
つまみ Post author
凛さん、コメントありがとうございます。
南場智子さん、実は存じ上げなくて検索してしまいましたが、同世代でした。
おお、ほぼ同じ時代を生きてきて、なんだかんだあって、現時点でのビジュアルを含めた立ち位置ってそれぞれだわあと、んなこといまさら!?な感慨を抱きました。
今回の記事は、ただ「おしゃれに見えない人でも、おしゃれに関心がないわけじゃないんだよねえ」と言いたかっただけのはずなのに、ついついいろいろ書き加えてしまい、自分で掘った落とし穴(間違ったサービス精神)に自分で落ちた感じでぐったりしていたもので、早々に凛さんからコメントをいただいてとてもうれしかったです。
健康維持って、寝だめとか注射一本じゃ無理で、地道に、地味に日々やっていかなければならないところが、食わせもの(?)ですよねえ。
とりあえず、今日もプランクするかー(>_<)
つまみ Post author
爽子さん、おはようございます。
ルビンの壺は、記事を書いてたわたしには、背景を含め、人とおしゃれの関係に見えちゃったんですよねえ。
壺に見えるか、向かい合った人の横顔に見えるか、正解なんてなくて、でも、壺、横顔、と決めてしまうと、なんかつまんなくね?みたいな。
ああ、全然上手く言えてませんが。
おしゃれの定義とされているモロモロを「どうだっていい」と思ってるわけじゃないのですが、わたしはそんなことより自分の方が大事なので、自分で勝手にルールを変えさせてもらってますよ、と言いたいだけっていうか。
これだって、変わっていくし、わたしだって、年とったらド派手なバアサンになるかもしれません。
乞うご期待!?
つまみ Post author
アメちゃんさん、ああそうですね。
その人の中身の漏れ出方ありき、かもしれないです、わたし。
ファッションで見える(見せる)その人より、話し方、表情、反応、黙っているときの目線、人が話しているときの聞き方、言葉の選び方、語尾のまとめかた、などなど、他者の「哲学」までを想像する力はわたしには欠けていて、人を見る目もあまりないんですが、そういう、中身が身体や顔の動きに出てしまう感じに興味があるかもしれません。
そっちばっかり気にしていて、服まで網羅しきれないのかも…なんちって。
仕事柄の自分のプレゼンの必要性、確かに大きいですかねえ。
わたしは小学校の仕事に行くときは、冬は白、ブルー、ベージュのシャツにカーディガン、夏はポロシャツ、と制服のように着ています。
下はチノパン系一辺倒。
この前、めずらしくスカートに見えるパンツを履いて行ったら、早速、こどもたちに「スカート履いてる!」と言われました。
「と見せかけて、ズボンでした!」と足を拡げて見せるわたしは50代後半です(^^;
カリーナ
こんにちは。
わたしは、この内容の素になる感覚を以前につまみさんに直接聞いたことがあって
そのときにものすごく面白い、と目からウロコが落ちました。
ファッションは自己主張と相性がよいということに概ねなっていて
(昨今のみなのか)
「他人に差をつける」「目立つ」「さりげなく主張する」などが
多くのファッション誌に使われる言葉です。
目立たずとも印象に残る…埋没の限界値はその辺だと思います。
あとシーンになじむ、なじみつつ「違いを見せる」。
そこにこの「印象に残りたくない」「埋没系」という言葉は、
「装う」ことの意味を反転させたり、広げたり、
薄めたり、変えたりしてくれる面白い概念だなーーーと
思ったのです。
しかし、こうやって記事を丁寧に読むと
衣服という「外部」を、自分を取り囲む他者という「外部」に向けて着るのか、
衣服と言う「外部」を、自分というそもそもの他者に向けて着るのか。
…という違いがあって
それによってファッションの構成要素(コスメとかヨガとか)
が大きく変わるのね!って思った。
(言っている意味わかりますか。わかりませんよね。わたしもわかんない 笑)
もうちょっと考えます。
つまみ Post author
カリーナさん、衣服と言う「外部」を、「自分に向けて着る」と書かずに、「自分というそもそもの他者に向けて着る」と書いてあるのが肝のような気がして、さすがカリーナさん!と思いました。
でも、なにが、さすが!なのかはよくわかっていません(^^;