◆◇やっかみかもしれませんが…◆◇ 第4回 苦手な決まり文句・フレーズ
①大きな災害などで、災害復旧、復興のためのボランティアをする人には心から敬意を表しますが、たとえば音楽関係者が演奏という形でボランティア活動をする際、「自分にはこれしかできないから」と言われると、ちょっと引っかかります。
音楽によって傷ついた心が癒されたり、ひとときでも非情な現実を忘れたりすることはあると思うし、被災地での演奏という行為自体は、もろ手を挙げて賞賛しますが、「これしかできない」ってことはないんじゃないか。肉体労働の人手が要る状況だったりもすると、なおさら「ん?」と思います。
自分は音楽が得意だから得意分野を活かしたボランティアをやりたいのだ、もっと言えば、他のボランティアはやりたくないのだ、ってことですよね。
いや、それでいいと思うのです。なにもせずに手をこまねいているだけの人間(ワタシ)よりずっと。だからこそ、「これしかできない」などという、謙遜してるんだか選民意識なんだかわからない言葉は必要ないと思います。「自分の演奏を聴いて欲しくて来ました」でいいんじゃないかなあと、このフレーズを聞くたびに思ってしまうのは…私だけなのかなあ。
②子どもが巻き込まれた事件、事故の直後にテレビで目にする街の声などの中に「子を持つ親として許せない」という言葉がありますが、聞くたびに、「子を持たない、親じゃない人間でも許せないよ」と言いたくなります。現実にテレビに向かって言ってるかも。
私は、子育てが、親と学校だけじゃなく、もうちょっと、そのへんの通りすがりの人間も含めた、社会全体で担う意識にならないものかと思っているのですが、正直言って、なかなかそういう方向にならない理由の一端は、まさに「子を持つ親として…」的発言を無意識にする、子を持つことと持たないことを知らず知らずのうちに断絶させているメンタリティの人、にもあるような気もするのですが、おせっかいオバサンの屁理屈にしか聞こえないのでしょうか。
確かに、実際に子どもを持たないとわからないことって、ゴマンとあると思います。例として適切かどうかわかりませんが、4年前から猫を飼って、それまで想像していた「猫と暮らすこと」と実際の日常はいろいろ違っていて、それは、生活のあらゆる局面の深さ(深いという意味ではなく)とか角度(鋭いという意味でもなく)を変えるものだと感じ入っているのは事実です。
でもそれを「猫を飼ったことがない人にはわからない」とか「自分は猫を愛する人間だから」みたいなことで括ってしまうと、もうそれで、いろいろ終わってしまう気がする。その「いろいろ」は存外に、「他者との気持ちの行き来にとって重要なこと」だったりするんじゃないでしょうかね。
ま、ニュースなどで流される「街の声」は、テレビや新聞にとって都合のいい意見なわけで、「子を持つ親として…」を採用するマスコミにこそ問題があるのかもしれませんが。
でも、「子を持つ親…」と言われちゃうと、そのへんの通りすがりの人間としては、目の前でシャッターを下ろされたような気持ちになっちゃうのですよね。
③気づきという「にわか名詞」が嫌いです。
今度の日曜日、このサイト主催で「カイゴ・デトックス」というイベントが開催されますが、イベント後、たとえば、「いろいろなことに気づきました」もしくは「いろいろなことに気づかされました」という感想があったとしたら安らかな心持ちで聞けると思うのですが、「いろいろな気づきがありました」と言われたら、その自信はありません。
気づきがありました、という言い方、やみくもに嫌いです。なんでこんなに嫌いなんでしょう。誰か教えてください。
by月亭つまみ
◆木曜日のこの枠のラインナップ
第1木曜日 まゆぽさんの【あの頃アーカイブ】
第2木曜日 つまみの【帰って来たゾロメ女の逆襲 月刊 切実本屋】
第3木曜日 はらぷさんの【なんかすごい。】
第4木曜日 つまみの【帰って来たゾロメ女の逆襲 やっかみかもしれませんが…】
まゆぽさんとの掛け合いブログです。→→「チチカカ湖でひと泳ぎ」
きのしたふみ
わあしがその言葉を好きじゃない理由は、気づきがありました、気づきをありがとう、と言っておくとさも考えてるように聞こえることですねー。
つまみ Post author
きのしたふみさん、こんにちは。
そうなんですよねえ。
「気づき」って名詞にしてしまうと、なにに気づいたか、どう気づいたかより、「気づき」という曖昧な、でもなんか考えてるっぽい幻想をありがたがる、みたいになっちゃって、しゃらくさいんですよねえ。