◆◇やっかみかもしれませんが…でもありませんが…◆◇ 第21回 夜の散歩をしないかね
この記事を書いているパソコンは、ベランダに面した掃き出し窓ぎわにある。今(2020年5月27日 pm10:55)窓はほんの少し開けている。今夜の風は夏の匂いがする。RCサクセションの「夜の散歩をしないかね」がしっくりする夜だ。
去年の今頃、義母がショートステイを利用し始めた。便意の訴えが尋常ではなくなり、訪問看護で排泄管理をお願いしても解消されなくなった。多いときは1時間に20回以上トイレを往復するようになり、日によっては夜中もそれが続き、本人も家族も疲弊した。
ショートステイを言い出したのは義母だった。自分の辛さもあるけれど、私に済まないという気持ちが大きかったと思う。
義母がショートに行っている間、夜になると夫とやたら近所を散歩した。最初は特に目的もなく、運動不足解消、猫にでも会えればラッキー、ぐらいだったが、途中から「このあたりに長く住めるいい住まいはないものか」という物件探しが歩く目的に加わった。夜間でも照明の落ちない不動産会社の広告の前で長く立ち止まったり、オープンハウスにおそるおそる近寄ったり、空き家を目ざとく見つけるスキルが上がったり、ネットで検索した物件にあたりをつけて見に行ったりした。
あれから一年。運良く住まいを決めることができた。直接、夜の散歩で見つけたわけではないが、あの日々が今の場所までの流れを作ったのは間違いない。今そこで夜風を感じながら「夜の散歩をしないかね」を聴いている。義母はその後、老健入所を経て、今年のバレンタインデーに特別養護老人ホームに入った。せっかく、新しい住まいから徒歩2分の特養に入所したのに、半月後にコロナで面会禁止になり、今もそれが続いている。
なにもかも、一年前には想像できなかったことだ。義母の施設入所までの道筋は想定内だろうと言われそうだが、違う。介護で「もう限界かも」という日々を過ごしても、家族にとって、その後に続くコースに「想定内」なんてない。常に逡巡や後悔があるし、タイミングは施設次第だったりするから、気がつくと思いがけない場所にいる。そんな一年だった。
一年前の日々には戻りたくないけれど、夜の散歩は懐かしいし、なんだか愛おしい。今、夜歩いても、あんな散歩にはならない。清志郎の歌もあんな風には聴こえない。あのとき、清志郎は私を夜に解き放ってくれた。この時間は、好きな道を、好きな気持ちで歩いていいと言ってくれた。歌詞の「ぼく」は明らかに清志郎だった。
でも、今聴くと、「ぼく」が自分の内部に入ってしまったようだ。まるで今の自分のように思えるのだ。そして、「きみ」は一年前の自分だ。
今、夜の散歩に出たら、路地からひょこっと「きみ」が出てきそうな気がする。そして「そっちもいろいろあるみたいじゃん。大丈夫?なにが幸せだとか不幸だとか、やってみないと、いや、やってみても、わかんないよねー」と、年長者(一年後の自分だが)に生意気な口を聞き、すたすた去って行きそうな気がする。
シュールで気色悪い妄想だが、「夜の散歩をしないかね」には口笛を吹く箇所があるくらいだから、なにが起こっても不思議じゃない。
…あれ?夜、口笛を吹くと、摩訶不思議なことが起こるわけじゃない?蛇が出るんだっけ?…まあいいか。
by月亭つまみ