やっかみかもしれませんが…番外編「わたしたちは移動している」 2/3
第一回はこちら→★
◆◆from はらぷ◆◆
メール読み返しています。
まず、わたしの書いた文章に、真剣に向き合ってくれたこと、カリーナさんありがとうございます。
ただのうぬぼれかもしれませんが、カリーナさんが誰にでもこんなふうに書いてくれるわけではないと思ってる。
送信ボタンを押してくれてありがとう!
書いてくれたことについては、まだ軽々に言葉にしてお返事ができません。
今考えていることの断片は、自分について書くと、他者について書いていることになるということです。
正直言うと、今回、読み手に何かを問う、突きつける文章を書いたつもりはありませんでした。むしろ逆で、自分のことだけ書こうと思って書いたのです。
それは、逃げの一種だったかもしれない。あ、でもカリーナさんのいう「突きつける」は、「読み手に」という意味ではないように思う。
答えの出ない自問自答をそのまま垂れ流した文章だという自覚はあって、その自問自答で、自らが揺らされていない、思索するふりして、痛そうなとこには触れずにさわさわしてたということかもしれません。
政治を語るときに文章が類型化することについては、わたしは政治にかぎっていえば、女子中学生並みに潔癖で理想主義者なのかもしれません。
どう考えても、インテリド左翼の世界で育ってきてると思う。
それが閉じた空間だという自覚もなく、その中の語彙を使って今まで思考してきたのかもしれないなあと思った。これは、初めて気がつきました。
現に今、体感的に、リベラルの言葉が人々に通じない、ということがピンとこないのです。頭ではわかるのだけど。これはなんなんだ…?と考え始めています。
「運動」のことについて、わたしも職場に労働組合があるので、すごくわかります。
ほんとうに、だんだんそうなっていく。
それには双方向の力があって、ひとつはカリーナさんの言ったような、やる側の意識、この「特権性の自覚」。
もうひとつは、誰かが「わたしやるよー(できるよー)」と言ったときに、それがどうしたって一定数、「あなたはなんでやれないの?」というメッセージとして受け取られ、敬遠されるという難しさです。
これも、ほんとうに、どんなに気をつけていてもそうなる。
あらためて、いろいろ話したいです。
まだ言葉にできませんといいながらいろいろ書きました。が、全然言葉が追いついていません。
咀嚼しきれていなくて、反発みたいに読めたらごめんなさい。
明日になったら、ぜんぜん違うことを考えて、これ消したい!ってなるかもしれませんが、今日のわたしを送ります。
とにかく、ありがとうと言いたい気持ち。
◆◆from つまみ◆◆
昨日、はらぷの記事がアップされ、それを読む前に、カリーナさんからのメールが来て、(はらぷが記事を投稿したときに、いつもカリーナさんと私に「投稿しました」という連絡をくれるという流れがあったとはいえ、今回、CCにしてくれてありがとう)、でも、じっくり読む時間…というか気力がなかなか出てこなくて、気を入れて、やりとりも含めて全部読んだのは今しがたです。
そういうこともひとつなんだと思う。
気を入れて読む、気を入れて考える、気を入れて行動する、気は本気と変換してもいいかもしれない。
起こっていること、考えていること、不安なこと、そういう自分に発生している案件、すべてに気を入れて暮らすことは、私にはとても難しいです。
意識的だったり無意識に、近景化、遠景化したり、クローズアップさせたりシャットアウトしたり、気を入れなかったり入れたり、時にはダブルスタンダード、トリプルスタンダードにしたり、で、今までの人生を過ごしてきて、残念ながらこれからも過ごすとしか思えない自分が、政治的なこと、今回のウクライナに対するロシアの茫然とする暴挙の数々も、こんなに日々心が痛むのに、怒りと不快感でテレビに「ざけんなよ!」とか「なんでー!?」と悲鳴に近い声を上げたりもしているのに、それでも例外扱いできない、自分に対する絶望感、そして諦観すらあります。
それは「軽く感じているから」「どうでもいいから」ではなくて、たとえば、亡くなった長兄の闘病中に、何度か、ここは絶対真剣に考えて、今の状況を変えなければだめだ、というタイミングであるのがわかっているのに、考えることを先延ばしし(もっと言えば放棄してきた)ただただ手をこまねいていた。そんな自分だから、そう思ってしまう。
認めるのがツライけれど、そのときと変わったとは思えないんだよね、自分が。
一言でいえば「ふがいない今までの自分の歴史を足枷にして逃げている」ってことなのですが(一言ではないな)、だからこそ、今回のはらぷの記事が、表現は不穏当だけどまぶしく、でも、はらぷが、ここまで私が書いてきた自責的な心理に鈍感ではないことはわかっているので、迷い、悩み、頭を抱え、それでも、自分に唾するような展開でも受け入れようと腹を括り(もしかしたら「諦め」)、なにより、それがTwitterや自分だけのブログではなくオバフォーの記事に書いたという事実に、勇気というか、カリーナさんをはじめとする関係者への信頼というか、うっかり感というか、やむにやまれずのパワーというか、ある種の開き直りというか…を感じました。
そして、それを読んで、リミッターはずし憧れ星人が、崇高な理念とか、今われわれがすべき、考えるべきこと、目指すべき場所という見地からではなく(もちろんそういう視点も重要ですが)、はらぷ個人の信条や資質や筆力に絶大な信頼を寄せていることが前提で、自分の率直な感想を表明したこと、そしてそれに対するはらぷの反応、それに対するコメント…この一連の流れに接して、語られている問題の深刻さは脇にちょっと置いて、ああ、これぞ、生きていることの面白さ、妙味、滋味、スリリングさ、清々しさ、予測不能な怖さ、などなどを感じました。
でも、なにより感じたのは、真剣に考えている人がリスクを引き受けて言えば、書けば、響く人がいる、伝える道筋はできる、ということでした。
はらぷもカリーナさんも(自分も、であることを希望します)これからも考えることはやめないだろう。
結論などもしかしたら死ぬまで導き出せないかもしれないし、間違えたり、理論武装に長け過ぎる危険性もある、自分のことでそれどころじゃなくなるかもしれない、でも、やめないと思う。
もう知っている視点や、すんなり落とし込めるどこかで見たような文章や表現は、人の心の浅い場所までしか届かない。しかも、そこまでの経路は短く、かつ整備されているので、あっけなく出て行くし、容易く何かにとって替わられてしまう。要するに、深いところで自分を抉らない気がします。カリーナさんが書いた「類型化」を私はそんな風に解釈しました。
間違っていたらゴメン。
はらぷに対しての「妥協のない言葉を選んで」に私の希望があるとしたら、歴史的建造物を見に行ったのに、その道中の路地のしもたやが気になってそっちの写真ばかり撮った、的な妥協のなさかもしれない。そういう、日常や日常と地続きなものを土台にしない歴史的建造物への気持ちなんて薄っぺらいんじゃないかと思ってしまう。
俗っぽい、なんの参考にもならないであろう見解ですまん。
カリーナさんもはらぷも、ありがとう。
何に対するお礼かわかりませんが、とりあえず、このただただ長い、まとまり皆無の駄文を最後まで読んでくれてありがとう、ってことにしておきます。
第2回ここまで
by月亭つまみ
Jane
はらぷさんにならできる、ってさすが座長、お蝶夫人のひろみへの愛のごとし!?
私なぞつまみさんがこうして取り上げて下さるまで、カリーナさんのコメントの意味をよく考えないまま流してしまっておりました。ですので、つまみさんのお得意な、原稿締め切り間近に生み出されるいっぷう変わった企画、いいなと思いました。ザツダンでも繰り広げられている、メンバーの方々の、この「流さない」突き詰め方よ…..。
はらぷさん、誰が書いても難しいお題を書いちゃったな、きっと「書きづらいからって書くのを避けてはいけない大切な事柄」と、はらぷさんの生真面目さが背中を押したのだと思いました。そして今週書くネタがないことをネタにするがごとく、とにかくはらぷさんの心に今ある葛藤をまな板に乗せられたのだと思います。
ここにコメントすることすら難しいですよ、はらぷさん!後でツイッターにいいねするだけにしとけばよかったと思うかもしれません….。
この戦争を思う時、私の胸に幾度も去来するのは、コロナが始まったころのズームバイブルスタディで、困っている人に対してクリスチャンは何をできるか、という問いに、ある参加者が「福音を伝えること」と答えたことから続く短い会話。「それだけ?(主催者)」「そうです。私たちは火事で燃えている家の中に飛び込むことはできませんから(その参加者)」「そうかしら…(主催者)」。
長くなりますのでやめておきます。政治と宗教の話は嫌われる、とも言われますしね!私も答えの出ない自問自答を垂れ流してごめんなさい….。でも結論がなくても、間違っていても、それが他の人の発言を引き出すきっかけになったりするじゃないですか。
つまみさんの「しもたや」のくだりも含めて考えれば、はらぷさんの得意とする方面から、裏道寄り道曲がり道から歩き始めるが吉ってことなのかな?と解釈しました。
つまみ Post author
Janeさん、コメントありがとうございます。
コメントを読んで、三浦綾子の『塩狩峠』をなぜか思い出しました。
自分が一時期、折に触れ、「自分は永野信夫にはなれないし」と思ったことも。
結論が出ない、考えても、書いても、むしろ苦しくなったとしても、考えることに意味がないとか、むしろ弊害が多い…わけではないことを証明するために、人は思索するんじゃなかろうか、と思ったりもします。
証明、と書きましたが、きれいな数式で、まるで伏線を回収するような見事な証明を他者に開示できたりはしない、この場合の証明は、自分の中の、言語化されないものでしかないんですよねえ。
めんどくさいものに目を瞑って、そこから距離を置いてでも自分の平穏を死守したい気持ちもありますが、世の中に平穏とは真逆の、生命が絶たれたり、その危険にさらされている人がたくさんいる事態を知っていて、それで得ている自分の平穏ってなんなのさ、とも思う。
こういう堂々めぐり、消耗はしますが、意味のないことだとは思わない。
ってことで、ふりだしに戻る(^^;
Jane
火事場を外から見ている私にとっては、中で焼け死んでいく人の助けを求める声を聞くのもつらいけど、だったら見なけりゃいいじゃんと自分の家に戻るには気になりすぎる。
これからどうなる、っていう好奇心もあるし、自分ちまで延焼してこないかも見張っていたい。
「中に閉じ込められている人達を助けてあげてー!子供の声が聞こえますー!」と叫んでも、じゃあ私が、とか私の家族が助けに行ってくださいと頼まれても無理。
自分か自分の家族が火の中にいるのだったら、絶対助けてほしいけど。やっぱりこんな燃え盛ってる状態じゃ、助けてもらえないのね。
なんか人を見殺しにしているようで罪悪感にさいなまれるし、あんなことが我が身に起こったらと思うと不安でたまらない。
そしたら、ご近所から助かった人達への任意の寄付を募るお知らせが回って来た。
お気持ち程度の寄付をするのは、お互い様よね。私だってこんな目にあったら、支援してほしいし。寄付したり弔問に行ったりしたら自分の不安も軽減するかも。
亡くなった人たちと残されたご家族のために、そしてこんな火付けが起こらない世の中になるよう祈ろう、っていう人たちもいるけど。
私が祈ることで亡くなった人や生存者が安らかになったり、火付け人に悔恨の情が生まれて火をつけるのをやめたり、もっと大きく言えば、世界の行く末が変わったりするのか?
もうすでにたくさんの人が散々祈ってきたけど、全然火事おさまらないじゃん。いやいつかはおさまるだろうけど、そこで祈りは届いたー!と喜ぶには、それまでに亡くなる大勢の人の死の意味が分からなすぎる。人間には分からないことだけど、これは最終的な善に向かっていくために起きていることなんですよと言われても。破滅の始まりに見えていることが、実は、未来の人類を救うための尊い犠牲とか?そうだとしても、犠牲者には選ばれたくない、私は….。
まあ、世間一般、火付けなんかしそうな怪しい人物には普段からもっと警戒するようになり、防災意識も高まるだろう、というのがとりあえず考えられる良いこと?
長文コメントやめとけ、と思いつつまたまた書いてしまいました。失礼しました。
つまみ Post author
私は、神がいるとも、祈れば届くとも、努力すれば報われるとも、思っていないみたいです。
もし、いるなら、届くなら、報われるなら、なんとかなったはず、という悲劇や残酷な出来事が、自分が生きている間に限ってもあまりにも多いので。
神は我々を見放したか、という方向で絶望するくらいなら、最初からいない、だから誰にも見放されてはいない、と思う方がまだまし、などと思います。
とはいえ、とはいえ、です。
祈ることや願うこと、希望を持つことが無意味だとは思えないのです。
その存在を必ずしも信じていないものにすがったり、どうにもならない不幸に祈りを捧げたりする、ある種の自己満足という幻想が、人、自分の糧になったりする、そんなうさんくささと隣り合わせの、一瞬の高揚や期待一体感が、いずれ死ぬしかない人間を生きさせているような気がするから…なのですかねえ、自分でもよくわかりません。
Jane
神を信じて報われるのか報われないのか、というところがポイントだと思うのですが、本当に信じている人というのは、この世でどんなに報われなくても天国で帳尻が合うと信じている人でしょう。
そしてつまみさんのおっしゃるように、不幸が起こった時に、多くの人は祈りを捧げたりしますよね、普段特に信仰を持っていない人でも。それは不幸が起きた人への「あなたを想っていますよ」という社会の慣習からくるサインであったり、なんか念は通じるんじゃないかという期待だったり、ほかにやれることもないし試して損はないし、とかだったり。
信仰を持てば希望が持てる、とポジティブシンキング的にとらえてそれが自分にうまく働いている人もいれば、「どうしてこんな不条理なことが起こったか分からない、どうしたらいいのか分からない、だけど何か意味や意図があると信じたい、生まれることにも死ぬことにも、自分が今こういう状態にあるということにも」と、判断を誰かに預けて自分の心の重荷を手放すとかごまかすのに有用、という人もあるでしょう(私は多分今ここ)。
預けっぱなしで祈る以外特に何もしない人もいれば、自分のことでは神様というセラピストあるいはコーチと相談という自問自答をしながら行動をおこしたり、不幸が起きた他人(ひいては自分)を救う具体的な活動に邁進する人もいますね。たとえばこのコロナ禍でも避難民や孤児を家で預かるとか。信仰の有無に関係なくやる人はやるでしょうが、おそらく信仰を持っていなければそこまでやらなかった人もいるでしょう。「信仰の証を示す」という誇らしさ、神が私を通して働いているという、その宗教を信じていない人から見たら、幻想からくる高揚感、教会の中での自分の立ち位置から考えての義務感、他の教会員から協力を得てミッションを一緒に果たすような充実感などなどが、ためらいの一線を越えさせるのでしょう。
悪いことの中にいいことを見る。でもそもそも悪いことが起きた時点で亡くなった人はそこから生まれるいいことを見ようもない、しかも残された人がどんなに考えても、その悪いことによって生まれたいいことはないということがいっぱいある、この世ではね。と振り出しに戻る。