【月刊★切実本屋】VOL.56 まだ読み終わっていない本
30代の7年間、都立の看護学校図書室の司書をしていた。バリバリ前世紀、図書室には、ワープロはあってもパソコンはなく、貸出は、個人情報ダダ洩れのカード方式だった。
阪神淡路大震災も、地下鉄サリン事件も、この職場時代の出来事だった。CREAという雑誌が主催していた「コラムグランプリ」という賞に応募してみたのも、ここで働いていた1997年だ。
受賞の連絡は、図書室の電話にかかってきた。まだ携帯電話は持っていなかったが、応募の際に職場の電話番号を書いた記憶がなかったので、受賞の事実より、まずはそのことの方に驚いた。家に電話し、仕事先の番号を聞いたとのことだった。
「いち早くお知らせしたいと思いまして」と電話の向こうの女性が、笑み混じりの声で言い、私は感謝の言葉を繰り返した。電話を切った後、図書室にいた学生に「おねえさん(一部の生徒にそう呼ばれていた)、何?どうしたの?何か当たったの?」と聞かれ、「え~と、ラッキーパンチがちょっと…」と答えたことを妙に鮮明に覚えている。
看護学校の図書室はその性格上、専門的な本や雑誌が多かった。基礎医学の本、病態生理の本、看護マニュアル、看護学生マニュアル、患者とその家族へのケア、老人医療、毎年開催される日本看護学会の各分科会別の集録誌…などなど。司書の資格のみで採用され、医療や看護の知識などまるでなかった私は、初日に自分の職場となる図書室を一回りして途方に暮れた。私、とんでもないところに来ちゃったかも、と。
危惧どおりだった。こちらにある程度の医学的な知識があることを前提に接して来る生徒や教員がほとんどだった。実習先から課題を与えられ、テンパった学生が駆け込んでくる場所、それが図書室だったのだ。すがるような目で、バイタル、ストーマケア、イレウス、カテーテル、服薬指導、プライマリーケア…などなどの本はどこ?と聞かれ、私の方こそテンパった。
司書は二人体制だったが、蔵書点検時以外は一緒に勤務することはなく、私が週に3~4日、相棒のベテラン司書がそれ以外の日の勤務だったので、わからなくても聞く相手がいない。今思い起こしても冷や汗が出そうな日々だった。
その後、定期購読している看護・医療関係の約30の雑誌それぞれのバックナンバー総目次をコピーし、特集記事のキーワード別目録カードを作ったり、書架の見出し板に、循環器や呼吸器などの名称だけでなく、具体的な病名やキーワードなどを入れるようにしたのは、学生のためというより、自分のためだった。
実習の前週金曜日の図書室は、事前学習のためにいつもごった返した。実習で受け持つ患者さんが発表されるのがこの日だったからだ。レファレンス(図書館の利用者が学習・研究・調査などの目的のために必要な情報・資料などを図書館員に求めること)は引きも切らなかった。目録カードケース前と、コピー機の前は特に人が多かった。波が引けると、ノートや付箋紙やペンだけでなく、コピーした文献、財布の忘れ物も珍しくなかった。それはなんだか、情報収集の残滓のように見えた。
インターネットがまだ一般的ではなかった時代である。必要な情報を得るためにはそれなりの苦労は当然というのが共通認識だったのだ。いまだに自分が、わからない情報をすぐに、特にWikipediaで見ることに若干躊躇することと、結局は見ることにはなっても、そこにちょっとした狡猾感と、「こんな風に得た情報は記憶に残らない」という諦観めいたものを覚えるのは、あの実習前の図書室の光景が目に焼きついているせいかもしれない…などと思うのは、時代錯誤の懐古主義だろうか。だろうな。
専門書が多い図書室とはいえ、それ以外の一般書もけっこうあった。比率にすると蔵書数一万数千冊のうちの2割程度は非専門書で、自分の在職中にも、小説や漫画、料理関係の本などをけっこう買った記憶がある。「ナースになろうとしたきっかけは?」の質問に、何人もの学生が「『キャンディ♡キャンディ』を読んだから」と答えたこともあって、この漫画も全巻揃えた。
厳密に「一般書」と言えるのかどうかわからないが、神谷美恵子さんの『生きがいについて』という本の存在を知ったのもこの図書室で、だ。
毎年入学してくる、1学年百人の学生の中には、社会人経験者もけっこういたが、ある年度、突出して年長だった、当時40代のKさんに「ナースになろうとしたのは?」とお決まりの質問をしたとき、彼女の口から出てきたのがこのタイトルだった。
学術書籍(非医療)の編集をしていた彼女は、それまでナースになろうと思ったことなど一度もなかったが、この本を読んで天啓に導かれるようにナースになろうと思った、というのだ。
『生きがいについて』は図書室にあったので、彼女が帰った後、早速手に取って開いた。途中まで読んだ。でも、読破には至らなかった。
その後、長い時間を経た2018年、ふとしたことから国立ハンセン病資料館に行く機会があり、そこでまた神谷美恵子さんの名前を聞くことになる。そして、まるでそれに付随するように、直後にEテレ「100分de名著」でまさにこの『生きがいについて』が取り上げられた。
伊集院光さんと一緒にこの番組の進行をしていた島津有理子アナウンサーは、この本がきっかけとなり、医師を志すためにNHKを退職し、現在、医大生だそうだ。
伊集院光さんも、最近出版した『名著の話 僕とカフカのひきこもり』という本で、この『生きがいについて』に言及しているらしい。
そもそも、『生きがいについて』は、わが家にある。
ここまで読む条件がそろっているのに、まだ読み終わっていない。いや、読むよ、そりゃあ、もちろん、読むに決まってる。
by 月亭つまみ