人生の「時間切れ」を軽く突き付けられたこと&前回の記事に応募くださった方へ。
先週金曜の晩に近所の友だちと飲みに行きました。うちの犬はもう死んじゃいましたが、あとのふたりは、12歳&10歳のチワワと13歳のトイプードルをそれぞれ飼っています。「目の手術をした」という話から、「10歳を超えたら、病気がちになる」という話になり、「犬が死んじゃったら、どうしよう」という話題になりました。
そこからうちの亡くなった犬の話になり、「もう1回、飼えるやん!」と言われたので「いや、55歳だと保護施設によっては、若い保証人がいないと譲渡してもらえないこともあるよ」と答えました。すると、ふたりとも「そうかあ!」と納得しつつ、「また飼おうって簡単に言えなくなるんだなあ」とちょっとしんみりしたのです。
若い保証人を立てるにしろ、立てないにしろ、犬を飼うとしたら、「最後の犬」ってことになるわけですね。55歳というわたしの年齢は。最後の犬!ズシリ。
インターネットでそのことを知ったとき、人生には、「時間切れ」があるということをさらっと突き付けられた気がしました。
先月、ブログに「老害」は影響力への未練。仕事でも親子でも異性間でも起こりうる。という記事を書きましたが、このときも説教をしつづける年配の男性を見ながら、「時間切れ」とか「効力切れ」という言葉を思いうかべていたんです。
いくつになっても「積み残し」ってありませんか。果たされなかった夢や欲望の積み残し。若いころにやり残したように思うこと、こんなふうにあり得たと思うこと。それは、「若いころ」の時代背景と自己イメージのまま保存されていて、時折、ふっと鮮やかな衝動となって甦る。「自分はこうもありえたはずだ!」「このまま終わるのはいやだ」という思いを完全に断ち切ることは難しいです。「折り合いをつける」って「諦め」とも似ていて、どこかマイナスのニュアンスがあるしね。でも、だいたい、そういう「積み残し事案」は、自分の時間だけが止まっていて、まわりはすべて変化しているんですよねえ。
きっと「年齢に関係なく挑戦は可能」という言葉が真実であるのと同じように、「人生には時間切れがある」ことも真実なんだろうと思います。「時間を大切にしよう」という言葉には、そんな自然の摂理がもつ冷徹さを意識しなさいという警告も含まれているんですね。
年齢に関係なく「挑戦」は可能だけど、それが「無謀」にならないためには、いますでに始めていたり、少しずつでも続けていることが大切なんだろうなあ。時折、「ふと甦るけれど、すぐに消えてしまう衝動」だとしたら、それは、もうとっくに時間切れを迎えてしまっているのかもしれません。
先週の記事、オバフォーは、「こういうものを書きたい!」「こういうことを語りあいたい」という書き手やアイデアを募集しています。にメールをありがとうございます。今週中にはお返事のメールを送りますので、もう少しお時間ください。ひきつづき、寄稿してくださる方やアイデアを募集しています。こちらの記事をご一読の上、ご応募ください。お待ちしています!
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