高校2年生のマジメな女子がケータイが必要だと泣いて頼んだ。「ケータイ」と「泣いて頼む」、どちらが重いのか。
数週間前、娘が通う高校の懇親会に行きました。担任の先生を囲み、母親が自己紹介ついでに「勉強しなくて困っています」とか「部活から帰ると爆睡です」とか、子どもの近況や悩みを語る場です。
今回は、最初のお母さんが口火を切ったせいもあって「ケータイ」問題が中心になりました。
勉強時間だけリビングに置かせている家庭、自己責任ですべて任せている家庭、スマホでなくガラケーにしている家庭…など、対応はさまざま。そんななか、一人のお母さんが「携帯はまだ持たせていません。娘には、クラブの部長として試合の調整などで必要だと泣いて頼まれましたが、主人と相談して『自分で稼げるようになってからにしなさい』と言い聞かせました。メールは、私の携帯でフォルダ分けしています」と言っていました。
私も、私自身がスマホにしてから、布団のなかでいつまでも見ているときがあり、「こりゃ、まずいぞ」と思うので、お母さんたちが悩むのはわかります。うちは小学校5年生からケータイをもたせている「ゆるいほうの家」なんですが、それがいいとも思いません。だから、各家庭に「方針」があるのもわかるし、その方針を貫ける親御さんは偉いなと尊敬もします。
ただ、その懇親会以来、ずーっと何かがひっかかっていました。その何かが、「泣いて頼まれた」という部分にあったことが、最近わかったのです。高校2年生の16歳の女性が、「クラブの部長として必要だからケータイをもたせてほしい」と「泣いて頼んだ」ということ。
子どもたちは、幼いころから一貫して「泣いて頼み」ます。スーパーでお菓子を買ってくれと泣いて頼み、お母さんから離れたくないと泣いて頼み、嫌いな野菜を食べたくないと泣いて頼む。それは、もう親にとってはあたりまえの見慣れた光景です。しかし。泣いて頼む内容は成長とともに変質するのです。それは、少しずつ、「まっとうな主張」になることもあり、「互いに歩み寄るための交渉への誘い」になることもある。ときに直訴であり、抵抗であり、悲鳴であり、反発であり、独立宣言にもなる。
「体育系部活の部長として連絡に必要だ」と「泣いて頼んだ」16歳の女性の主張は、厳しい教育方針の家庭であればあるほど、十分に尊重され、会話され、相互に納得されるべきだったのではないか。そこで出された結論が「ケータイはお預け」なら、それでまったく構いません。もしかしたら、そうだったのかもしれません。そうだったらいいな、そうであってほしいと切に祈ります。自分が親になってつくづく思うのですが、「しつけ」と「支配」は紙一重です。それがある日、支配へと方向を変えたとたん、弱者のなかで静かに少しずつ憎悪を育む。あるいは無気力を。
夫にとって見慣れた妻の従順が、従順のまま「愛情」から「葛藤」、「諦め」「別離への決意」と変わっていくのにも似ているんじゃないでしょうか。見慣れた光景のなかで、確実に人は変わっていく。それが成長なんだと思います。
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爽子
各家庭、教育方針はさまざまでしょうけど、わたしは、ゆるいので、クラブの部長してる娘に、持たせると思います。
連絡に、相当困ってる気がするなあ。
締めるところが違うと思います。
そんなお嬢さんだったら、無茶な使い方はしないと思うのですが、甘いかな?
ケイタイを渡すに当たって、しかるべき話し合いをして、使わせてあげたらいいのに…
わたしも、スマホのゲームがどうしてもやめられず、今朝アンインストール?したばかりです。
ぬるいわあ。
かえるちゃん
なんだか切なくなってしまいました
私は携帯を持たせない保護者の心の中に
ウチはよそ様と違って、揺るぎない教育方針がありますのよ
どう?私達エライでしょ?スゴイでしょ?
的なものが無いことを祈りたいデス
宇野ゆうか
うーん、うちは厳しいほうの家庭だったので、色々と思い出しますねぇ。
買ってもらえないものは沢山ありましたが、今から思うと、それがないことで、友達との付き合いにいつも自分だけが参加できなかったというケースと、それがないことで、恥ずかしい思いをしたり、何らかの被害に遭ったというケースが、後々まで自分の心に何かもやもやしたものを残しているような気がします。
私が高校生の頃は、携帯を持ってる子も多かったですけど、持たなくてもまだ何とかなる時代でした。でも今の時代は、持っていないと厳しそうですね。
結局、「何を買い与えるか・買い与えないか」というよりは、「子供の事情や言い分を聞いているか・聞いていないか」ということになるのかな、と思いました。
うえまつ
これはもう、暴論かもしれないんですが、親は子供を支配してしまうのだと思うんです。
支配しようとする親と、支配されまいとする子供。しかも、その根底に深い愛情があることで、その支配がより強くなる。そして、逃れようとする気持ちも強くなる。
映画「祭の準備」じゃないけれど、親のエゴが子供の壁となって、子供が成長する、という側面があるのかなあ、という気がします。
とは、思いながら、実際には妙に物分りのいい親になっている自分を反省することしきりの毎日です(笑)
ゆか
この記事を読んで、自分の子供時代を思い出して涙がでました。
うちの親も、支配的で、「お小遣いを持たせない」主義でした。
中高生のころはサンリオの文具を持つのが流行っていたのですが、ひとつも持てなかったし…
りぼんやなかよしなどの雑誌も買えないので、いつも友達の家で読んでいました。
「大学へ行って高学歴になると就職できない」「大卒は嫁の貰い手がない」とわけのわからないへんてこりんな理由で、泣いて頼んだけど短大すら行かせてもらえず高卒で就職。
世の中は女子大生ブームなのに、就職しても給料は親が管理してお小遣いもなく、友人との旅行の旅費も「贅沢だ」と出してもらえず、ブランドバッグのひとつも買えませんでした。
「よそはよそ、うちはうち」という考えは間違ってはいないと思いますが、
あえて私の経験からの極論でいえば、
「女の子はある程度、友達と同じように、あるいは友達よりもちょっぴり物理的にも満たされてはじめて、他人にも優しくする余裕のあるエレガントさも育つ」
のではないかと思います。
私はビンボー臭い、あのころの自分が大嫌いですし、今でもそんな青春時代を思い出すと泣けてきます。