エピソード7★昭和初めの進学事情
さてさて、聞いた話を形に残すことを仕事にしている「有限会社シリトリア」(→★)。
普通の人の、普通だけど、みんなに知ってほしいエピソードをご紹介していきます。
今年もよろしくお願いします!
【エピソード 7】
昭和2年、新潟県S町で生まれ育ったサキさん。
地元の尋常小学校を経て4年間の女学校に進学後、先生の紹介で先生の母校である東京の専門学校に進学しました。昭和18年、16歳で東京での下宿生活が始まります。
当時の進学事情と東京でサキさんが見たものについて、2回に分けてサキさんのエピソードをお届けします。
最初に、昭和初めの教育事情について少し説明します。
戦前の日本では、小学校卒業後必ずしも全員が中学校(男子)や女学校(女子)に進学するわけではありませんでした。希望進路に合わせて中学校以外の各種上級学校に進んだり、進学せずに家業を手伝ったり、職に就いたりしました。ほとんどの人は尋常小学校か高等小学校が最終学歴でした。中学や女学校など中等教育機関を卒業した人は10人に1人か2人。そのわずかな卒業生のうち、さらに高等学校を卒業した人となるとほんの一握りです。
昭和初期の学校制度 (文部科学省HPより)
サキさんの通った尋常小学校でも農家の子どもが多く、ほとんどの同級生は義務教育の尋常小学校を終えると家業を手伝う道に進んだそうです。
そんな時代ですから高等教育の学校は地方にはなく、サキさんも兄も姉も全員東京に出て下宿をして学びました。兄と姉と歳の差があったサキさんが10代の頃、兄も姉も東京に行っていて、一緒に過ごした記憶はほとんどなく一人っ子のようだったそうです。
当時、女子はごく一部の学校を除き、高等学校にも大学にも進学することが認められていませんでした。サキさんのお姉さんは大変優秀だったそうですが、尋常小学校から新潟市内の女学校を経て東京の高等師範学校へ進み、女学校の教職に就きました。お兄さんは、東京の中学校から早稲田大学(当時は専門学校令に基づく専門学校。後に大学令に基づく大学に昇格します)に進学、やはり教職に就きました。
早稲田大学正門より図書館を望む(昭和7年) (早稲田大学HPより)
姉や兄同様、一人東京に出てきたサキさんは、16歳から九段下にある「和洋女子専門学校」(現「和洋九段女子高等学校」)で学びました。学校は宮城(皇居)のすぐ近くにあり、靖国神社もすぐ近くです。ちなみに九段の校舎は昭和20年の東京大空襲で焼失してしまい、学校は千葉県市川市に移転しました。
サキさんが暮らした下宿は普通の一軒家でしたが、同じ学校の生徒3人と一緒でした。その3人は青森や秋田出身で、戦争中にもかかわらず遠くから進学している分、自分とは学ぶ覚悟が違うような気がしたそうです。サキさんは半年で「もう、とても東京にはいられない」と学校を辞めて新潟に帰ってしまいましたが、3人は学校生活を続けました。3人が無事に故郷に帰ることができたのか、サキさんは今でも気になると言います。
和洋女子専門学校 明治44年建築の校舎 (和洋九段女子中学校高等学校HPより)
本来なら、サキさんも、兄や姉が学生時代を過ごした憧れの東京で楽しい学生生活を送るはずでした。しかし、時代は戦争真っただ中。どんな東京生活だったかは次回に続きます。
- 写真/佐藤穂高(広島在住のプロカメラマンです)
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