ここにいます
12月17日、今日も今日とて灰色のいちにち。これは比喩でも心象風景でもなく、イギリスの冬は圧倒的に灰色である。黄色みがかった、薄明かりの灰色。グレーと黄色の配色ってきれいだなあと思う。それと、木々と煉瓦の家々の赤茶色。
午前中には、不動産屋さんがあたらしい入居者を募集するための広告写真を撮りにきた。来月そうそうには、あたらしい家に引っ越すことになっているのだ。自分の家ではないけれど、快適に住んだ恩のある家なので、いい人に借りられるといい。がんばって片付けをした。
不動産屋さんが帰ってしばらくたって、家の戸を叩くものがあるので、あれ?何か忘れ物でもしたかな?と思ってドアをあけると、荷物の配達員さんが立っていて、ダンボールの小包を渡してくれた。送り元は、にほん!
ジャーン!
西荻窪にあるギャラリー「もりのこと」の店主サノさんが送ってくれた、クリスマスお届け便だった。お菓子や、この世でもっとも尊い餅のひとつである「発芽玄米餅」(サノさんのお兄さんが作っています)、そして、ギャラリーを通して知り合っただいじな友人たちがせーので入れてくれた、できたての本や作品、手紙や、プレゼントの数々。
わたしはさいきん、べそべそと泣いてばかりだ。
箱の底には、げんざい「もりのこと」で行われている展示の冊子を忍ばせてくれていた。
「ここにいます」、というのが、今回の展示のテーマだった。会場では10名の作家が作品と文章を持ち寄り、わたしも、遠隔から文章のみ参加させてもらった。
このテーマで想起されることを、文章にしてくれませんか、そうサノさんから連絡をもらったとき、もうそりゃあいろいろと書きたいことがあるような気がしたけれど、できあがったのは結局、ごく私的なこと、自分のまわり50センチ程度の、ちいさなせかいの話だった。死んだティーちゃんのことを書いた。
できあがったものを読んで、送る前に少し逡巡した。「ここにいます」と小さな声でつぶやくだけの時間も与えられず、のべつまくなしに人が死んでいくこの世界で、ただ「生きる」ということがこんなにもむずかしいよのなかで、わたしの、なんて甘ったるくて身勝手なことか。
でも、やっぱりこれきり書けないという気がした。数ヶ月後ならまた違ったかもしれない、けれども、わたしが書ける「ほんと」は、今はこれだった。送信して、サノさんからへんじをもらうのが少しこわいように思った。
数日前に、展示を見にきてくれた人が「作品も文章も、それぞれちがうけれど、皆どこか祈りに似ている」とSNSに書いているのを読んだけれど、冊子を読み通して、ほんとうにそうだな、とわたしも思う。
「ここにいます」とかすかに光って知らせる存在に目をこらす。
不在がつくる真空の前にたちすくむ。
それが、世界のどこかを思いやることであっても、目の前のさわれる何か、または失って久しい慕わしいものたちを思うことであっても、だれかのさもない日々の明け暮れが、明日もその先も続いていきますように、のばした手が、どこかに繋がっていますようにと願うことには変わりがない。
わたしがことばにできなかったことも、誰かが書いてくれていた。アンソロジーっていいな。それぞれがまったく違う対象について書いているのに、どこか少しずつ重なりあっている。
そして、みんなに通底しているのが、にんげんであることに対する畏れ、謙虚さだった。
会期中頒布されている冊子にはもうひとつあって、それもサノさんは同封してくれていた。
渡辺尚子さんがつくったちいさな製本。表紙には「日常もしくは落とし物」と手書きの文字が書かれている。
今年の元旦、能登を旅していて被災した渡辺さんが、1月12日から書き始めた日記だ。じぶんの一部を能登にのこしたまま、東京の日常にもどってきた渡辺さんは、あちらとこちらをいったりきたりしながら落としたじぶんを拾いあつめ、よく検分して、体の中にもどしていく。
その日のことを綴りはじめたのは、やっと2月10日になってからだ。
渡辺さんがあの時間能登の空港にいたことは知っていたけれど、当時の詳細を読むのは初めてで、たまたまそこに居合わせ(てしまっ)た人たちと空港という閉じた空間ですごした数日間の不安と、その場で自分にできる最善をした人々の強さがせまってきて涙が出る。
あのとき、能登からSNSをつうじて渡辺さんが発信してくれていたかすかなパルスを、遠いこの国でキャッチしては、すがるような気持ちで読んでいた。それは、こちらがわにいるわたしたちを安心させようと渡辺さんが放ってくれたエールだったとともに、彼女とこちらの世界をつなぎとめるための細い糸でもあったのだ。渡辺さんがのこしてきた一部は、戻れる「こちら」のない能登の人たちのそばに留まろうとする。そしてたぶん、もしかしたらあちらにいったまま、戻れなかったかもしれない自分のもとに。
冊子の文字はすべて手書きで、表紙の紙には「能登仁行和紙」(のとにぎょうわし)という砂色の手漉き和紙が使われている、と奥付けにあった。さわると土のつぶつぶが指の腹に触れて、存在感のあるいい紙。手でぱたぱたとこしらえて、はい!とわたされたできたての和菓子みたいだ。かたちがあるって、いいものだなあと思う。ここに記したことは、にんげんが忘れてしまってもちゃんと残る。本がおぼえていてくれる。そして、こうして海をわたって、わたしのところまで届くんだから。
2つの冊子をなんども読み返しながら、ああ、なんだか、祖父の本をつくったときや、もりのことで以前、「3月におもうこと」という展示に参加させてもらったときに感じたことと、つながっていると思った。
そんなふうに思うのも、生きて、日々が続いているからこそである。こうして折々に書く機会をもらっていることや(このサイトもそうだ)、じっさいに訪ねていける場所を保ち続け、「モノ」を運び、届けてくれる人たちのありがたさときたらはかりしれない。
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もりのことの展示「ここにいます」は、12月29日までの開催です(月、火、水はお休み)。
もし近くにでかけるご用事などありましたら、ぜひお寄りください。
杉並区西荻北4-9-3
12:00〜18:00
旧Twitter: @morinokot
Instagram: @morinokoto
by はらぷ