〈 晴れ、時々やさぐれ日記 〉 ああ、カメラ。シュジンとワタシのあいだ
――— 46歳主婦 サヴァランがつづる 晴れ ときどき やさぐれ日記 ―――
うちにはカメラがない。あるにはあるが使う習慣がない。
うちのカメラは古いデジカメがひとつだけ。高校時代は写真部だったとシュジンは言うが、そのシュジンが選んだデジカメは、単機能でメモリーが恐ろしく少ない。たしかこの前にも一台、フィルムカメラからの乗り換え第一号があった。いずれにしろ「カメラ」というものにここまで関心のない家庭というものは、「カメラ好き日本人」として例外中の例外だと思っている。
カメラをほとんど使わないので、10歳の息子の写真は数えるほどしかない。彼が今後大きくなって、「自分の子ども時代の写真がない」ということをどう理解するのか不安ではある。
一人っ子なのに写真がない。これは親の淡白さと受け取られても仕方がない。写真の数が少ないということはしかし、有利な一面もなくはない。昨年学校で行われた「二分の一成人式」という行事のとき、わが家は写真の選択に困らなかった。
わたしはもともとデジカメが苦手だった。今のカメラはそんなことはないと思うけれど、わたしが初めに手にしたデジカメはシャッタースピードが相当遅かった。撮ったつもりの「一瞬」は、必ずワンテンポのズレがあった。撮りたかったのはこれじゃない、毎回わたしは思っていた。
そもそも子どもが小さかったたころ、子どもをデジカメに収めることに音をあげた。動く子ども、ズレるデジカメ、写真の中の子どもはいつもフレームアウトした。相性の悪すぎるデジカメは、早々とシュジンに預けることにした。しかしこの「元写真部」の写真のセンスが、わたしのそれとはかけ離れたものであった。「元写真部」はまた、取捨選択を一切しないままデータを保存し、「お片付け」の下手さを露呈することもわたしをいらだたせた。
デジカメ写真への熱意がほとんど底をついたころ、男の子三人を持つ転勤族ママの言葉に膝を打った。「うちは転勤族だし、当分狭い官舎だし、写真を抱えて移動するような余裕はないから、写真は全然撮らないの。写真って、荷物にもなるし時間も食うでしょ。だから写真の代わりに記憶。うちはそれでよしとしてるの」
さまざまな要因が後押しして、写真をほとんど撮らない生活が10年近く続いていることになる。
「動く子どもをカメラで撮る」ことを放棄した代わりに、うちではもっぱらデジタルビデオをまわしてきた。こちらは何故かわたしの担当ということになり、幼稚園や学校行事、その他日常の子どもの様子を撮りためて、遠くに住まう祖父母に送ったりしてきたが、ここ数年はそのビデオも出番がうんと減った。
先日の運動会、「わたしは食糧班、あなたは撮影班で行きましょう」と取り決めたので、シュジンは鼻のあたまを日焼けで真っ赤にし、一日撮影班を終えたのだけれど、帰宅してそのビデオを見てあ然とした。
そうか。このひとにはこう見えているのか。
シュジンがズーム機能を使えないわけではない。それでもほとんどの場面が接写をしないまま、淡々と淡々と撮られている。淡々と撮られた映像の中でウオーリーを探すのは親でも骨が折れる。「これは、おじいさんおばあさんは見つけられないな」とわたしは思う。シュジンの撮ったビデオには、余韻とか余白というものも一切ない。子どもの出番の開始から終了まで。ブチッとはじまりブチッと終わる。
観終わったあとで、一瞬深いため息が出た。今までならこの手のため息は「不満」や「不平」の言葉をわたしの口から吐き出させていたのだ。「あなたには気持ちというものがなさすぎる」と。
だがしかし、今回のわたしは違った。「しょうがない」「これがシュジンの見ている世界なのだ」。
目の前のできごとに加工をせず軽重をつけず。このひとの目には、息子は大勢の中の一部として存在している。「存在している」、それ以上でもそれ以下でもない。
数年前までは腹を立てていたシュジンの行状に、今年のわたしはなぜか無頓着だった。母の目と父の目、両者の違いを、息子本人は、これから区別して認識するような気がうすうすしているからだ。このビデオ見たとき、息子は言った。「お父さんらしくておもしろいね」
まあ、そんなことはどうでもいい。わたしは最近「カメラ」の購入を決意した。子どもは「止まる」ようになった。カメラの性能はとんでもないことになっているはずだ。さてここらで、疎遠だった「カメラ」との関係によりを戻したい。
カメラを手に入れる気になったのは「子ども撮り」のためばかりではない。自分を撮っておかないとエライことになる、そう最近思うようになったのだ。
この10年、わたしの写真はほとんどない。以前、シュジンが「撮ろうか」と言ったとき、「わたしはケッコウ。撮らないでね」と言ったきり、シュジンがわたしにレンズを向けることはない。「撮って欲しくないと言うのだから撮らないのがいいのだろう」シュジンはそう考えているはずだ。
何にしろ10年近く「カメラ」の前に立っていない。出先でどなたかに撮っていただき、後日その写真を頂戴することはある。ありがたい。でもその写真を若い頃のようにしげしげと見る、ということはしない。それはちょうど、家を出た後では鏡を見ないようにしていることと似ている。「自分が写っている」ことは確認するけれど「自分がどう写っているか」には見て見ぬフリを通してきた。だって、つらいんだもの。
シュジンは不思議と写真映りがいい。シュジンのお義母さんもすこぶるいい。この現象の裏に「自意識」というものの取扱いの違いが隠れていることにわたしは前から気づいている。気づいてはいるが、わたしの写真映りに改善はない。
こりゃまずい、と思ったのは今年の夏だ。「自分を見ない」ということは、とてもラクで快適だったのだけれど、「こんなことになっている」ことに愕然とした。「たぶんこんなことだろう」と曖昧をよしとしてきたけれど、見て見ぬフリをしてきた「現実」は、自分の想像を軽く超えていたのだ。
理想と現実。光と影。客観と主観。。。カメラは、そのあいだをすくいとる道具だ。( あれれ、なんて大げさな )
「あのね。カメラ買いますから」
「なんで今頃?今からカメラなんか買うなら、ケイタイをスマホにした方がいい」
「えーと。わが家はいつスマホにするんでしょう。うちは待つんですよね。こういうこと。でもそうこうするうちに 子どもはどんどん大きくなって家を出ていくし、わたしは着々と老けていく。視力だってだんだん怪しくなってきた。だから、もう一つの目が欲しいんです。だからわたしは、カメラを買いまーす ♪」
爽子
写真写り、わたしもいつもガッカリです。
なんの心の準備もなく、キメ顔する余裕すらなしに、シュジンは、シャッター切ります。
撮りゃええんやろ!はい、撮ったったで!みたいな。
わたし、こんな顔してる?
うん、まんま。
…と、いつもこんな具合に残念です。
完全に気を抜いた状態で写ってる自分の顔は、情けない。でも、これが現状なんだから仕方ない。悲。
私の撮ったシュジンの姿は、二割増しにかっこいいのに、不公平!!ぷんすか
同じ風景の前に立っても、撮る人によって、随分違う写真になりますものね。
現実をそのまま受け止めます。
よいカメラに出会えますように。^_^
きゃらめる
こんにちは。今秋モデルのソニーのスマホは、なんとレンズを装着して、より凄い写真を撮れるようになるらしいです…
サヴァラン Post author
爽子さま
写真写り「ガッカリ仲間」でうれしいです!
ご主人様の撮影方法、実家の母とおんなじです。
「ママはねー、見えませんからねー。ほれ、撮った。ハイ終了」
それで母の撮った写真を見ると 地面が三分の一以上あったりします。
「地面なんてあとでパソコンで切れるんでしょー。
それにしてもせっかく撮ってあげたのに
あーたはヘンな顔ばっかりねー」と口ばかり達者。
あの撮り方で「ヘン」にならずに写る方法があったら知りたい。
レンズの向こうとこちら
その両者の心理もまた、写真を左右しますよね。
そうそう。向田邦子さんのお若い頃が美し過ぎて
「ほーほー」とため息を漏らしていたのですが、後日あの写真は
特別な関係にあったプロのカメラマンの手によると知って
別の感慨にひたりました。
サヴァラン Post author
きゃらめるさま ありがとうございます!
カメラにも疎ければ
スマホにもとんと疎く
ここ数日報道のあった新機種は
「あ!きゃらめるさまが教えて下さったスマホだ!!」と
別のトコロで盛り上がってしまいました。
スマホにレンズって…
凄いことになってるんですね。
カメラにするか スマホにするか それがモンダイだ…
なんとか「写真機能」をゲットします!