〈 晴れ、時々やさぐれ日記 〉 ああ、バイアス。look for と look far のあいだ
――— 47歳主婦 サヴァランがつづる 晴れ ときどき やさぐれ日記 ―――
あれはわたしが小学6年のときだったか。担任のS先生は、20代後半の熱血漢だった。スラリとした長身に三つ揃いのスーツがよく似合って、生徒からもお母さんたちからも信望があった。夏休みには先生のお宅へお邪魔して、素敵な奥様と可愛い赤ちゃんにお会いしたりもした。
そのときも一緒だった仲良しのAちゃんは、あの年のわたしの誕生日にひまわりの油絵を描いて贈ってくれた。白い額におさまったAちゃんの大らかなひまわりは、今でも実家の元わたしの部屋の壁にある。Aちゃんはあの頃からひまわりのように長身だった。
Aちゃんのお母さんも長身で、笑顔の素敵な方だった。あるとき、Aちゃんが教卓に座ったS先生にはなしかけていた。「お母さんが趣味でネクタイを作っているんだけど、先生もらってくれる?もらってもらえるとしたら何色のどんな柄がいいかしらって、お母さんが」
ネクタイを、作る?俄然興味がわいて、Aちゃんのおうちにお邪魔させていただいた。ネクタイ用の生地の上にお母さんはお手製の型紙を斜めにセットされ、わたしは生まれてはじめて「バイアス」という言葉を知った。
息せき切ってうちに帰り、母にそのはなしをすると「まあ、Aちゃんのお母さん素敵ね。そうよ、ネクタイは生地をバイアスどりにするのよ。あなたが今着てるジャンパースカート、そのスカートもバイアスどりよ。布目が斜めになってるでしょ」と言った。バイアスどりにすることでネクタイの剣先はまっすぐ下に落ちて、結びやすくほどけにくくなる。バイアス裁ちをしたスカートは、独特なフレアになるのだと言われてさらに驚いた。
2学期が終わったクリスマス、Aちゃんのお母さんは先生にネクタイを贈られたと聞いた。Aちゃんはわたしに、可愛らしいポーチをプレゼントしてくれた。お母さんに教わりながら作ったというそのポーチは、布の周囲をバイアステープで丁寧にパイピングしてあった。ポーチも素敵だったけれど、わたしはそのバイアスの針目の美しさをうっとり眺めた。
保護者が担任教師に「手作りのネクタイを贈る」とか、生徒が先生のお宅にお邪魔するとか、「今」ならちょっと想像しにくいことだな、と思う。あの頃すでに、少しこまっしゃっくれたところのあったわたしは、おそるおそる母に訊ねた記憶がある。
「Aちゃんのお母さんが先生にネクタイを贈られるって、素敵だなと思うけど………。 そういうことってしていいものなの?」
母は言った。 「たしかにそういうことも考えないでもないけど………。いいのよ。余計なことを考えないで。 Aちゃんのママはネクタイ作りがお上手で、それを先生にプレゼントしたいと思われたんだから、それは素敵なこととして、余計なことを考えないでお話を聞けばいいの。もともとまっすぐなことを、わざわざ斜めにする必要はないでしょ。Aちゃんのそのポーチも…丁寧によくできているわね」
素敵なことは素敵だと、余計なことを考えずに静かに聞けばいい。 まっすぐに。斜めにせずに。。。。。
古い古い会話をふっと思い出した。なんだか最近、「余計なこと」を考えすぎているような気がする。ひととの会話を「バイアス」で受け取ったり、「バイアス」のかかった会話をすることが「デフォルト」になって、「まっすぐ」な会話ができなくなっている。そもそも話題を選ぶ段階で、「バイアス」を掛け過ぎている気がしなくもない。大事なことの周辺を、わざと遠巻きに、触れないように、あたらないように。どんなことでもそそくさと、いつだって斜めの視線で。
ネクタイやポーチのはしかがりには「バイアス」の良さが出るけれど、あの会話もこの会話も「バイアス使い」というのはしんどいなー。
新しい法律が決まって、国と国 国と人 人と人とのバイアスが気になって仕方がない。眼前の利益衝突を前提にバイアスをきつくとることよりも、遠く平穏な一枚布を目指す方法は。。。。。
どこかでキリキリと 、糸がよれるような音がする。