〈 晴れ 時々 やさぐれ日記 〉 「ああ、SA。ホームとアウェイのあいだ」 その二
もう少しだけ静かなところで、もう少しゆっくり座りたいから、あっちのレストランにしない?そういうわたしの意見は、たいていこの二人に却下される。主人は言う。時間が無駄にかかる。息子は言う。ぼくはとにかくハンバーグカレーが食べたい。
ほぼ半日を車で移動し、たいして運動もしていないのに、ハンバーグカレーはないんじゃない?そう思う言葉はこの際飲み込んでおく。なんにしろ、このひとたちは、こういうB級?のお食事が大好きだ。サービス棟の入り口近く、ひっきりなしに人が出入りし、そのため外気が間断なく吹き込むフードコーナーを 彼らはものともしない。
息子は手慣れたふうに、後からきたわたしのためにお茶を運んできたりする。あ。ありがと。仕方がない。2:1でも多勢に無勢。たまに1が強弁をふるって、ここより少し静かなレストランに入っても、SA内のレストランはどこか不思議なサービスが多い。ならばここで少し休憩。次の休憩まではわたしが運転するとして、ちょっと頭を起こさなければ。息子が運んでくれたお茶を手に辺りを見回す。
ほお~っとしている。どのひともこのひとも。どこといって別段変わり映えがする感じのしないフードコーナーも、息子が「ご当地じゃがりこ」を物色しにいくお土産の陳列棚も、みな何かに解き放たれたような顔つきで、そう、お風呂上りのひとのような風情で、急ぎもせず、せかされもせず、ゆったりと館内を歩いている。本当に欲しいものはたぶんここにはない。それでもみな、角立たず、ふわふわと歩いている。
ここには目的がない。以前、わたしはそんなことを思っていた。何が食べたい。何が買いたい。そういうわけでもないのに時間を過ごすことに嫌悪に似た気持ちがあった。狭い空間に押し込められたさまざまな字体、さまざまな意匠、さまざまなものの匂い、そこへ吹き込む突然の外気。落ち着かない落ち着かないと勝手に思い込んできた。今こうしてみると、あら?わたしは何にそんなに角立っていたのだろう。
覚醒している感じがここにはない。さっきまで ハンドルを握っていたひと、うたた寝していたひと、退屈しきっていたひと。だからだろうか。みんなどこか、心ここにあらずの子どものような顔つきだ。お互いを見ることも見られることもスイッチをオフにした視線は、猫のそれと似ている気がする。
わたしはこのコーナーが苦手だと思ってきた。この湯上りのような緩慢な空気。目的や効率を少し横へおいてきた微妙なズレ感。つかみどころのない、ふわふわとした、平熱なゆらぎ。あれ?今かすかに鼻先をかすめたのは、ひょっとしてひょっとすると、「しあわせ」という空気?
男性二人の軽食はあっという間に終了する。腹ごなしに、少し離れたスタバに寄ってコーヒー豆を買う。何もここで買わなくてもと思わないでもないが、帰省先に行けば行ったで何かと時間がない。ほんの少しの移動距離を、息子の肩に手を置いて小さな電車になって歩いてみる。ふだんわたしは、こんなことはしなくなっているのに。
サービスエリアの本館のサービスがB級で、このスタバがまあA級、などという気はない。そもそも今、アタマをかすめたA級とかB級とか、なんやねん、と思う。フードコーナーのおばちゃんのマイクの声は、A⁺級のはりつやだった。
高校の頃、数学のA先生に教わった。先生のおっしゃることがわたしには全く理解できなかった。放課後など少しおはなしを伺っても、先生もまた、わたしの理解不能が理解できないというふうだった。先生のおはなしで覚えているのは、エッキシとダッシ。それから奥様のこと。
休み時間には職員室の隅の小さな古い洗面ボールで、手の甲にまで泡を飛ばして歯磨きをしていた先生は、授業中ははっきりした滑舌で「このA’が」とか「Xの解を」とおっしゃった。あ。これでは伝わらない。先生がおっしゃったのはこうだ。「このエーダッシが」「エッキシのかいを」。
わたしの在学中に、先生は奥様を亡くされた。普段の授業では教科書以外のはなしを一秒たりともされない先生が、ご葬儀のあとの授業の冒頭で、「大切なものは失ってはじめてその大切さに気付く。以上。」とおっしゃった。A先生。お元気だろうか。
学生時代、初めて手にした成績表に、A⁺とかB⁻という表記があるのを知った。わたしたちはそれを、エープラ、ビーマイナス、と呼んでいた。なんか。ウェルダンとかレアとかミディアムレアとか、お肉の焼き具合みたいだなとあのとき思った。
主婦になって、やれやれと思うのは、AもBも、A⁺もB⁻もないこと。細かに差異を峻別し、評価をされるステージから離れたこと。それでもしかし、ときおり頭をかすめる言葉がある。「わたしは評価されていない」。やさぐれの瞬間でもある。
スタバのガラス越しのドッグランでは、洋服を着た犬たちが走り回り、そのぐるりでは飼い主の方たちがポケットに手を入れて軽いおしゃべりをしている。誰かが投げたフリスビーを大きなレトリバーとそれより小型の日本犬が追っていく。おっと。今うしろを通り過ぎた男性が、コーヒーを片手に何か言ったぞ。
「 ドッグラン? お犬様だな。生類憐みの令か。」
フードコーナーが苦手だとか、A級とかB級とか、ダッシとか、プラマイとか。わたしは何様のつもりでいるんだろう。親から見守られた子ども時代があって、親から距離をとった今のくらしがある。わたしが親だったりもすることには正直戸惑う。戸惑う。そうだわたしは、いつも戸惑っている。ゆらいでいる。AとBのあいだ。過去と現在と未来のあいだ。世の中という座標軸の中の自分の居場所。
日々のくらしはいかにも平凡で滑稽でさえある。今しがたふうっと「しあわせ」という空気が鼻先をかすめたと思ったら、次にはまた「皮肉」というスパイシーな風が鼻腔を突く。両方の風が一時に吹き込むときなど、鼻はどちらを嗅いだものかと右往左往する。ドッグランの犬たちが、頭上に投げられたフリスビーに走るように、ついつい手の届きそうな、届かなそうな、動くもの、新奇なものへと感覚が反射する。
戸惑いは戸惑いのまま、ゆらぎはゆらぎのまま、角立たず浮遊しているのもいいのかも知れない。「ほしいもの」とか「居場所」とか、はたまた「目的」とか、いつまでも若者と同じように、くっきりとした指標を目指す必要はないのかも知れない。A先生のはなしがからっきしわからなかったわたしが、いまさら座標軸など、無理して書かないほうがいい気がする。エッキシの解は、これからもエッキシのままで。
ホームとアゥエイ、車はその間を走る。小雪の舞うSA。「ほい。ほい。寒い。寒い」。コートのフードを被り、車まで子どもと小走りでもどる。少し離れる。すぐにもどる。そして走る。そのことの繰り返し。
1月15日の「ああ、デパート。その一」でご紹介しました「ほぼ日刊イトイ新聞」のジョージさんのコンテンツ。またまた新しくなって登場のようです。ジョージさんはいよいよ禁断の花園、デパートのランジェリー売場へ!ご興味があればこちらの階へ→♪
爽子
車での長距離移動の機会が極端にすくないので、SAに立ち寄ることは、最近はほぼありません。
数年前まで、息子のラグビー合宿のおっかけで、菅平まで友人の車に便乗させてもらって毎夏行ってたんですが。。。
な~~~んにも、考えませんでした。
これが文章書ける人とかけない人の感性の差かもしれませんね。
SAでは、トイレと休憩の飲み物、あ、岐阜県でしょうかしら、恵那SAあたりで、牛のステーキ串が想定外に柔らかくて美味しかったのが懐かしいわ。
きっと歯が折れそうなくらい硬いよ!と旅の小ネタをひろう気分で買ったのにすごく美味しかった。
食べてみ!と口をつけた串をそのまま、お父さんもお母さんも男女回し食べて、みんなまた買うので、小さい行列が出来ちゃったりして・・・・。
サヴァラン Post author
爽子さま。ありがとうございます。
SAを不必要にほじってしまいました^^。年末年始は、不必要に神妙ウイークになる悪癖です^^。
SAの利用って、いろいろですよね。みなさんがみなさん、長距離移動の途中ということではないでしょうし。恵那SA、わたしも利用したことがあります。名古屋時代に諏訪方面へ遊びに行くときに。養老あたりでも、おっしゃるようなSAグルメの噂を耳にしたことが。飛騨牛~、って耳が反応します。。。そうですよね!SAって、そういう「旅の小ネタ」スポットでもある。だからでしょうか。みんなちょっぴりいたずらっぽい感じだったりもするのは^^。
あ。ラグビー部の息子さんなんて、ボーイズマザーとしてうらやまし~~。ケガとかご心配はあったのでしょうが。うちの子はどう間違ってもそちらへは行かない感じなので。憧れです。ラグビー部の母。