サヴァランは見た。この街のひとびと #6
むすこの学校の「聖書を読む会」
11月の集まりへおじゃました。
新約聖書のうち
四福音書のクリスマスにまつわる節を
会の主催者である校長先生と保護者のみなさんで輪読する。
読むと言っても、四福音書(マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネ)の中で、
最も古い「マルコによる福音書」には、キリストの誕生に関する記述はない。
一方で、マルコの次に古いとされている「ルカによる福音書」には
わたしたちが知っている飼い葉桶の場面が記されていた。
ルカによる福音書 2章1節~20節
そのころ、皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録をせよとの勅令が出た。。。。。
うちはクリスチャンでもなんでもないのだけれど、
むすこは山口で、たまたま教会付属の幼稚園に通ったので、
クリスマスには、それなりに懐かしい思い出がたくさんある。
校長先生は、
このときの会で、
教会のクリスマスの暦についておはなししてくださった。
それによると、
教会のクリスマスは
毎年11月の30日に一番ちかい主日(日曜)を待降節と呼び
そこから12月25日の降誕節クリスマスを経て、
年明け1月6日の公現日(栄光祭)までが
信徒のかたにとっての「クリスマス」
ということだった。
1月6日は、
たしかフランスではガレット・デ・ロワを食べる日だったなと
あまりに浅薄な自分のクリスマス知識に恥じ入ったりもする。
「世界各国で、さまざなクリスマスのお祝いの仕方がありますが
アドベントの時期を大切にする教会では
待降節の日にまず1本の紫色のろうそくに火を灯し
そこから1週間ごとに1本ずつ火をつけて
3週目には、白かピンク、あるいは赤、
そして翌週にはいよいよクリスマス。
信徒はこのように、徐々に徐々にクリスマス当日を迎える準備をするのです」。
校長先生のおはなしにはこのようなものもあった。
「クリスマスの飾りつけにはほかにもさまざまな意味があり、
例えば柊などの赤い実、
赤はもともと人間の罪の象徴でもあって、
ひとびとは、赤いものをひとつずつ飾りながら
自分のその年の罪を反省するという意味を持たせる国もあります」。
保護者のわたしたちは
「ま~。わたしたちは何にも知らないで
ただクリスマスらしいから、華やかでお祝いらしいからと思って
リースやツリーに、たくさんの赤い飾りを平気で飾ってました。
あれは、わたしたちの罪だったんですね~ 」。
そう言って、ひとしきり笑ったりもした。
四福音書の輪読は続き
聞き覚えのあるヨハネの章になった。
初めにことばがあった。
ことばは神と共にあった。
ことばは神であった。
このことばは、初めに神と共にあった。
万物はことばによって成った。
成ったもので、ことばによらずに成ったものは何ひとつなかった。
ことばの内に命があった。
命は人間を照らす光であった。
光は暗闇の中で輝いている。
暗闇は光を理解しなかった。
校長先生は
「ここで言う『暗闇』とは
ローマ帝国によるキリスト教への迫害という意味も含んでいます」
とおっしゃった。
なるほど。
なるほど。
それでも。
やっぱりここが、いつもわからないぞ。
「暗闇」の意味がわかったとしても
いつもここがわからないのに変わりはない。
そして、いつか、いつか
この章の解釈をしていただきたいと思いながら
今回もまた、
それができずに「聖書を読む会」はお開きになった。
この時期の日暮れは早い。
アタマの中で鶏と卵の順番を考えたりしながら、
チャペルの前のもみの木の紫とピンクの電飾に目を遣りながら、
この日も学校をあとにした。。。。。
いつもこうだな~と思う。
聖書の断章の、わたしには解釈しきれないか所について
「あの。ここをもう少しくわしく教えてはいただけませんか?」と
伺うことができずに
もごもごとことばを飲んで帰ってきてしまう。。。。
クリスチャンの方が
何を思い
何を求めて
聖書と十字架にこうべを垂れられるのか。。。。。
20代の学生の頃には
なかなか理解しえなかったことがらも
この年になると、
ぼんやりとだがわかるような気がすることがある。
でも、まだわからない。
わからないから教えて欲しい。
けれども、
きっと、
ことばにして聞いてはいけない、ことのような気がしている。。。
興味本位で伺ってはいけない。覗き込んでもいけない。。。。。
信仰のある生活というものも
わたしのような非信徒には
まだまだベールの中である。。。。。
ひとつだけ、
アドベントのこの時期になると思い出すことがある。
それは、ネットでお知り合いになったある方が
「これはもしかすると、わたしの個人的な思違いなのかも知れないけれど」
と前置きをして教えてくださった、
信徒の方のこの時期の過ごし方のおはなし。
信徒は通常、キリスト教のさまざまな行事のときに教会で告解をすることになっています。
クリスマスは、一年の行事の中でもいちばん大きな行事ですから
信徒は、待降節のこの時期に、この一年の自分の罪を悔い改めて
一年で最後の告解をするのが本来のならいです。
そして、それによって新たな人間として生まれ直すという意味もあるのだと
わたしがお世話になっている神父さまは教えてくださいました。
とはいえ、最近では信徒も世の中の忙しさの例外ではなく、
通常の告解の習慣も、
アドベントのこの時期の告解も
何年もしないまま、ということもけっして珍しくありません。
こういうわたしも、今年こそ今年こそ、と思ってもう何年も告解をしないままなので
生まれ直しも、懺悔もできないまま日々の罪を重ね
年をとっているというわけです。。。。。
キリストの生誕とともに新たに生まれ直す。
ああ、それはぜひともあやかりたいな。
でも、わたしなど この一年の罪が重すぎて、
( むすこをいじめました。シュジンをいじめました。義父母や父母にも不義理をしています。。。 )
それらを
こんなときだけちゃっかり白紙にしていただくのも
それはそれで罪の上塗りというものだな。。。。。
そんなことを思ったりする今年もはや12月。
たまたまスーパーで見つけた柘榴の実。
真っ赤でつやつやしてきれいだなと思って買い求めました。
赤いものは罪の象徴と聞くと
なるほどわたしの罪は、大きくて重い気もします。
おまけに中には赤くて小さな実がびっしり。。。 (>_<)
【サヴァランのやさぐれ中すday 】更新予定~
第1火曜 …「もってけBENTOU」
第2火曜 …「おばばの靴」
第3火曜 …「サヴァランは見た!」
第4火曜 …「やっぱりおやつ♡」
いつでもどこでもやさぐれサヴァラン♪
旧コンテンツはこちらです。→ 「晴れ、時々やさぐれ日記」
okosama
サヴァランさん、こんばんは
スマホ向けの改行?で流れるサヴァラン節も、良いです〜。(^ ^)
女性の美容に良いと言われるざくろのオチが胸に染みます(笑)。
サヴァラン Post author
okosama さま おはようございます!
うちは、や~~~~っとスマホにかえました。
は~~~、スマホの世界はこんななのか~~~って
未だに人差し指でおそるおそるフリック(ぜんぜん素早くないw)
同じ記事でもPCとスマホでは印象が違うんですね~
(単に自分が老眼だというはなしもありますが^^)
ざくろはたしか、叶姉妹でちょっと話題になりましたよね。
シーズンが終わったら、味わうツモリです。
罪の味、ひとつ、ふたつ、。。。。(^^;