◆◇やっかみかもしれませんが…◆◇ 第50回 なぜ姉妹を持つ友人が多いのか問題に対する浅い考察
同性の兄弟(この場合は姉妹)を持つ友人知人が多い。ざっと検証すると、7割方がそうで、あとの2割が兄か弟、残りが両方いるか一人っ子という感じ。これって、かなりの偏りだと思う。自分には兄しかいないので、類は友を呼ぶ説とは逆になる。だからこそ、姉妹持ちに惹かれるのだろうか。
そんなことをつらつら考えたのは、最近、数十年ぶりに中学時代の友人とメールのやりとりをするようになったからだ。数か月前の記事(★←ここをクリックすると出てきます)に登場したヨウコ。再交流のきっかけは件の記事だ。書いてしばらくしたら、めきめきとヨウコに読んでもらいたくなった。当時の担任のあまりの素っ頓狂さをヨウコと笑い飛ばし合いたくなったのだ。それで、久しく年賀状のみのやりとりだったヨウコに連絡をとった。
中学校に入学し、わりとすぐにヨウコと私を含む4人が仲良くなった。わたし以外の3人に男兄弟(考えてみるとヘンな言葉)はいなかった。自称南沙織似のヨウコは三姉妹で妹が2人、男子にモテモテだったオダマキコは妹が1人、栗田ひろみのモノマネが十八番だったキグチユキコも三姉妹でこちらは姉が2人…。見事な男子禁制っぷりである。
当時はそのことをまったく意識しなかった。今だって実はどうでもいい(なんだよ)。でも、その後の交友関係もその傾向が顕著であることに最近気づいた。気づいてしまったのなら、ムリヤリでも落としどころを見つけたくなるのが人情というものだろう。
三つ子の魂…で原体験的に妄想すると、自分が妹というポジションなら、まず念頭に浮かぶ姉妹関係は「ちびまる子ちゃん」だ。この関係はすこぶるリアル。大人になったら、そりゃあ頼ったり頼られたり、物理的にも精神的にもいろいろシェアしたりしなかったりするのだろうが、お姉ちゃんと和気あいあい、何でも相談する姉妹なんて自分にはまったく想像できない。
一方、姉という立場になるとイメージはガラッと様変わりする。山口百恵・淑恵姉妹における百恵ちゃんである。いまだに検索せずに妹の名前がわかることがわれながら気色悪いが、キャッチコピーは差し詰め「おねえちゃんに任せなさい」か。家の外では人に頼られる器量がなくても、中ではなんとしても姉シフトを敷きたい。マウントか。いやいや、百恵ちゃんに倣ったわたしはそんなことはしない。あくまでも、妹の意思を尊重し、押しつけがましくないやり方を模索する。だって百恵ちゃんだもの。アレ?だから、百恵ちゃんことわたしも…アレ?ダメだ、バグったかも。
あ、そもそもは、自分にはなにゆえ、姉妹(のみ)持ちの友人が多いのか問題だった。
ヒトには、トシが近い同性と衣食住を共にし成長したきたことでしか培われない、同性向け協調性(別名:ムダな衝突回避)基準みたいなものがあると仮定するのはどうだろう。
距離感、駆け引き、許容や察知のさじ加減…などなど、経験値や肌感でしか導き出されない、明文化も難しい同性との付き合い方の批准書(国じゃないけど)。その批准書を持たない自分は、持たないからこそ、遵守できるヒトにソッコーで気づき、誘蛾灯の蛾のごとく近寄る…という説。こじつけが過ぎるか。
一方、異性とともに育ってきた方にも説がないこともない。それは「異性がそのへんにいてもまったくもって意識しない、むしろ、視界に入れようとしても入ってこない」説。そして、かっこいいおにいちゃん、イケてる弟、などはこの世に存在しない説。
たとえ、イケメン俳優に姉か妹がいることがわかってもその認識は揺るがない。この場合のテキストは、けらえいこの「あたしンち」が最適だ。ユズヒコがイケメンか否かのレベルではなく、姉弟の関係性として秀逸なのだ。その真理(?)提唱者(わたし)も、ある種の誘蛾灯になり、姉妹(のみ)持ちを引き付けるからわたしには姉妹持ちの友人が多い…なんてね。
姉妹のいる人が羨ましい、と思うこともないではない。トシを重ねて親の介護問題が立ち上がると、兄弟や、その配偶者より、姉妹がいてよかったな、姉妹がいればよかったな、と思うことは多そうだ。実際、母親のときにそれは思った。でも、実際はどうなんだろう。
自分によく似た性格の姉妹がいたら苦手かも。それでなくても、自分の一挙手一投足に母親がちらつくようになって喜ばしくないのに、姉妹ならもっと顕著で、その期間も長かろう。近親憎悪を誘発したりはしないのだろうか。
なあんて、これも持たざる者のやっかみで、実は羨ましいのだろうか。いやいや、自分に似ず、美しかったり、頭脳明晰で弁が立つような姉妹がいたら、それはそれでめんどくさいので別に要らないな。でも、いざというときはいた方がいい?いや、自分は要らないッス!(またバグっだ?)。
By月亭つまみ