◆◇やっかみかもしれませんが…◆◇ 第72回 世界が引っくり返る、世界を引っくり返す
先日、近くの障害者支援施設のクリスマス会に行って来た。夫が参加しているバンドがそこで演奏したのだ。去年のクリスマス、今年の夏祭りに続いて、行ったのは三回目である。
夫は、そのイベント会場とは別の地域活動支援センター(地域で生活している身体・精神・知的障害を抱える人に、創作活動や交流の機会を提供する施設)でボランティアをしているのだが、ベースが弾けるということで、ほぼ自動的にバンドのメンバーになった。30代後半ぐらいからはずっとウッドベースを弾いてジャズを演奏していた夫だが、ここ数年は介護やコロナ禍や仕事に翻弄されていたこともあって、長年続けている重度の重複障害を持つこどもたちのボランティア活動でも楽器を弾くことはなく、ライブ活動からも遠ざかっていた。
大人の障害者バンド(便宜上こう呼ぶ)への参加は、夫の音楽への気持ちを再燃させたらしい。わたしからみると安くない価格の中古のエレキベースを購入し、エレキ楽器(呼称が昭和かっ!)とのブランクを埋めるべく、仕事と勉強(通信教育)の合間にヘッドフォンをつけ練習に励んでいる。
というわけで、夫の日常はたいへん忙しい。わたしとは大違いである。でも、忙しいひとが近くにいて、状況をつぶさに見たり聞いたりしていると、自分も「忙しいかも」「そこそこ頑張ってるんじゃない?」という錯覚に陥る。どうかしている。が、錯覚ばんざいだ!
大人の障害者バンドでの演奏はとても楽しいと夫は言う。メンバーは、当事者だけでなく、施設の責任者やボランティアのプロのプレイヤー、大学の実習で施設に来て以来、参加するようになった元学生などもいて、総勢は10名を軽く超える。演奏する曲は、当事者であるメンバーが作ったオリジナル曲が中心で、自分の心情をストレートに綴ったロックが主だ。そこに、施設の責任者の自作の渋いブルースや、歌で参加しているメンバーがリクエストしたヒット曲(今回は「糸」)などが加わって、今年のクリスマスライブは7曲演奏された。
パフォーマンスは自由でカオスだ。舞台に上がっても表面上はなにもしない人(でもきっと演奏したり歌ったりしている)が複数名いる。いでたちも個性的で、神父姿だったり青の柔道着に青帯を締めていたり(遠目にはこじゃれた青のジャケットに見えた)と多彩だ。かと思えば、歌詞を朗読する人、疲れたからと曲の途中で演奏をやめちゃって舞台を降りる人、踊る人、とにかく演奏中ずっと笑い続けている人など、そこに当事者と、スタッフやボランティアとの垣根も特徴の見分け方もない。
当事者かと思っていたらプロのパーカッション奏者で、ボランティアかと思っていたら悩み多き当事者だったりする。それも含めて、舞台上はなんでもありで自由奔放に見える。でも、歌の内容は不自由さや息苦しさの吐露だったりしてグッとくる。そのギャップは一見シュールだ。
でもきっとギャップでもショールでもないのだ。不自由と自由は対極ではないし、自由というのはそんなに単純でわかりやすいものではないから。わかった気になって言語化しようとするなんて不遜なのだ。
私はそっと心の雑記帳を開き、とりあえず「自由という言葉を安易に使うまい」とメモする。この帳面は確か最近も開いた。そのときは「罪悪感という言葉を安易に使うまい」と書いた。<安易に使うまい>シリーズ。なぜ「罪悪感」に対してそう思ったのかは忘れた。自由のこともそのうちきっと忘れるのだろう。
なるべく内省しないで暮らしたいと思っている。自分に限っていえば、自分を、見つめたり探したり悔んだりしても、よくて無意味、悪けりゃ自家中毒を起こすのが関の山だからだ。たまに、ハッとするような言葉で自分を語るひとにも出くわすけれど、自己プロデュース能力が高いだけかもしれないと思う。よくよく読み直すと中身は凡庸だったりするから。地に足がついて語るべき自分を持っていると見せかけたハリボテでデコラティブな言葉の羅列かも、とか。言い過ぎ。でも自分にもそういう部分があるから鼻も利くのだ。そして、その手の言葉を発したときにいちばんに騙されるのは、他者ではなく自分だということもわかる。時には「よすが」にさえする。‥でも、よすがになれば、それはそれでいいのかもしれないな。
当事者の多くは、ままならない心身に疲弊し、働けず、働いても続けるのが難しく、人とすんなり会話が続かず、気持ちがころころ変わり、衝動的な言動に走りがちで、理解されないと苦しむ。いちばんの望みは、就労支援の事業所ではなく一般の会社に所属することだと語る人が多いというメンバーの、一見自由で楽し気な歌、演奏、踊りを見ていたら、不意に世界が引っくり返った気がした。
その世界は、複雑で手強くて分厚くてやりきれなくてファンキーだった。自分はそこで、うわあ!と何かに心を持って行かれてた。でも自分はその中‥具体的にいうと踊りの輪には入れなかった。理由を考えたけれど、やめた。そこにあるのは「入れなかった」という事実だけだ。来年は入れるのかもしれないし、やっぱり入れないのかもしれない。
そんなふうに自分の2024年は暮れていく。来年も、いろいろなきっかけで世界が引っくり返るのを見てもいい、いや、見たいと思っています。もちろん!断じて!どんなことがあっても!戦争や災害や事件ではない形で。
今年もありがとうございました。来年もよろしくお願いします。
by月亭つまみ